「韋駄天」あれこれ


雲が多いが概ね晴れと言おうか、薄曇りと言おうか、その中間ぐらいの一日だった。ウォーキングのショートカットコースの沿道の両側にハゼノキが点々と10本以上はある。いま、その実が鈴なり状態だ。この実を蒸して和ろうそくの原料にするそうだ。ウルシの仲間だが、うるしほどかぶれる心配はないそうだ。鳥が実を運んで野生化したものではないだろうか。



半世紀以上の歴史があるNHK大河ドラマ、第1作が尾上松緑演ずる井伊直助の「花の生涯」、第2作が長谷川一夫演ずる大石内蔵助の「忠臣蔵」以後昨年の第57作「西郷どん」まですべて時代物だった。今年の58作目は初めての近代物の「韋駄天」で果たして流れが変わってどうだろうと、日曜日の夜は注目した。


小学校の頃の国語の教科書だったか、昼休みに先生の読み聞かせの本だったか忘れたが、戦前の五輪での日本選手の活躍ぶりだとか美談を今でも憶えている。昭和11年のベルリン大会での女子200m平泳ぎで日本人女性初の金メダリスト、「前畑がんばれ」の放送で有名な前畑秀子。この大会では、男子棒高跳びで大江、西田の美談があった。



両選手は5時間以上にわたる大接戦の末、2.3位決定戦をすることになり「日本人同士で競うことはない」と決定戦を辞退して銀と銅のメダルを半分に割り分け合った。そんな五輪の物語の中で、日本人が初めて五輪に参加したのは明治時代でマラソン金栗四三だったということを知った。


今年の大河ドラマはその金栗四三の生涯が描かれるとなると、予めそのプロフィルを知った上でドラマを見た方が興味が増すだろうと思い調べてみた。彼は明治24年熊本県生まれ。東京高等師範(現筑波大学)在学中にストックホルム五輪マラソン予選会にマラソン足袋で出場して優勝。1912年(明治45年)のストックホルム五輪日本人初の選手となった。



第1回目の放映では、この予選会の模様や、代表に選ばれたものの「荷が重すぎる」と辞退するも、選手団長の嘉納治五郎から「欧米との差を埋めるため、誰かが捨石とならねばならない。日本スポーツ界の黎明(れいめい)の鐘となれ」と説得され、この一言で世界と戦う腹を固めた場面が描かれている。その際に冒頭の画像にあるポスターを見せられ、日の丸も描かれているのを見て、意を決したのだった。


1912年(明治45年)ストックホルム五輪のレースでは炎暑に苦しみ、26キロ付近で意識を失った。棄権した金栗は「行方不明」の扱いとなり、現地では「消えたランナー」として語り継がれているという。恥をすすぐために一生懸命マラソンの技を磨き、8年後のアントワープ五輪マラソンでは16位、その4年後のパリ五輪では途中棄権している。



金栗自身三度にわたる五輪挑戦は不本意だったが、彼が残そうとしたのは、記録ではなく、捨石を恐れぬ意気に貫かれた「人」だろう。1928年(昭和3年アムステルダム五輪マラソンでは日本人選手が4位、6位に入賞した。そして、その肝をなめるような執着が、今では正月の国民的行事となった箱根駅伝を生んだといえよう。


金栗は「行方不明」の55年後、ストックホルムでの記念行事に招かれ、競技場をゆっくりと走り場内に用意されたテープを切った。この時「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルム五輪大会の全日程を終了します」とアナウンスされた。                       


この記録は五輪史上最も遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われている。金栗はゴール後のスピーチで、「長い道のりでした。この間に6人の子供と10人の孫に恵まれました」とコメントした。公私に「人」を残した人だ。この1年、ドラマの展開が楽しみだ。


どんな分野であれ、世界と渡り合う前段には数多の挑戦がある。築かれた敗北の山があり、それを乗り越えた先にしか夜明けはない。そんな教訓を残すドラマではないだろうか。