2019年年賀状「べっぴんさん


きのうの氷点下の朝から比べると幾分寒さもやわらいだ、おおむね晴れの一日。台所でカミさんが、一生懸命何かを叩いている音がする。そうか、きょう1月11日は鏡開きなんだ。床の間に飾ってあった鏡餅を割っている音だ。「割る」とか「切る」は縁起が悪いから「開いている」と言えと、朝の連ドラ「まんぷく」のふくちゃんの母親、誇り高き武士の末裔すずさん(松坂 慶子)みたいなことをのたまっている。


七草粥、鏡開き、年賀状の整理も終わって、正月気分も一掃だ。書くのは少々面倒な年賀状だが、もらうのはやはり嬉しいものだ。リタイヤーして三分の一くらいに減ったといっても100枚近くが今年も届いた。あの人は元気そうでなによりだ。あの人の字は昔と比べると弱弱しくなったとか近況がわかる。彼の今年の作品はどんなものだろうか?今年も年賀状の「べっぴんさん」を選んでみた。



先日の産経デジタル版に出ていた。年賀状のピークは、2003年で44億枚、今年は20億枚前後の予想だとか。わずか16年の間に半分以下に減っている。メールやSNSなどの情報通信手段がこれだけ進んでも、20億枚の世界だ。年賀状は通信手段ではなく、既に日本の風習というか文化として国民の間に浸透しているといっても過言ではないだろう。


年賀状の本来の目的は近況を伝えるツールであり、挨拶であったり、旧交を温めあう道具だ。この目的だけならメールやSNSでも、ある程度代用が効くかもしれない。しかし、年賀状は単なる利便性で片付くものでないだろう。どれくらいか知らないが、かなり長い歴史をもつ文化であり、風物詩であり、ある種エンターテインメントでさえあると思う。



毎年年賀状をやりとりしている人のうち6割位の人に対して、今年の年賀状に「卒年賀状宣言」をしたクマさん。見方によっては「べっぴんさん」だけはウエルカムで随分虫のいい話かもしれない。言い訳がましいかもしれないが、「卒・・・」はフィジカル面の問題、「べっぴんさん歓迎」はメンタル面の問題と捉えている。年には勝てないのだ。


身体は衰えても、心の持ち方で「青春」を謳歌出来ると云いたいのだ。