幸福の感じ方


春の嵐が去った後はその吹き戻しか何か分からないが、青空に真冬の寒風が吹き荒れた一日だ。それでも、先日のウチの庭のカリンの若芽がそうであったように、四つ池の周囲の柳もいっせいに芽吹きはじめて寒さに震えながらも春の息吹を実感する。


柳の若緑色のこまかな芽が輝いているのは何となく明るい気持ちを抱かせる。きょうのような晴れにつけ昨日のような嵐につけ、若い芽は日々育って行く。その勢いが毎日のウォーキングで伝わってくる。



随分前に読んだ聖路加病院院長の日野原重明先生の「生きかた上手」にこんなことが書いてあった。

<人はえてして自分の不幸には過敏なものです。小さなトゲが刺さったくらいのことであっても、自分の不幸となるとその10倍20倍にも痛みを感じます。不幸を実感するのはたやすいのです。

では、不幸がなければ幸福なのかと言うと、決してそうではありません。誰しも幸福を望みますが、それを実感することにおいてはきわめて鈍感です。>


リタイヤーしてやっと煩わしいしがらみから解放され、これから自分の好きなことができると安堵したものだった。自由な時間の内の1割や2割は”世のため他人のため”に関わらなければと地域の色々な組織のお役を頂戴した。1割や2割の配分のつもりが大きなウェイトを占めるようになった。                                       


家庭のことや自分の好きなことへの時間配分が少なくなった。カミさんからはいいこと云われない。自分もやりたいことが存分にできない。”世のため他人のため”が生きがいの人はそれでいいが、自分はそういうことはある種の”税金”だと思っている。収入に対して税金の占める割合が多くなれば面白くない。


なんで、俺がこんなことまでしなきゃいかんのだ。愚痴のひとつも云いたくなる。日野原先生に云わせれば不幸を実感するのはたやすい。そうかぁ、毎日何かに追いかけられているような生活の中で幸福を実感するのことにきわめて鈍感になっているだけかなぁ? 100歳を過ぎてもなおかくしゃくとしておられる日野原先生と同年代になって、その答えは出るだろう。