清須というDNA


雨上がりの朝、新緑が美しく清々しい子どもの日となった。”ディスカバー足下”の続編。四つ池の北の端に高さ10m位の南向きの斜面が200mほど続いている。今その斜面全体がさながら黄色い絨毯を広げたような光景で美しい。外来種の害草ブタナだ。群生した地域では芝生が枯れてしまうなどの被害も発生するため、駆除されてしまうことも多いらしい。


来週の13日に老人クラブ45人が市役所のバスを利用してキリンビールの名古屋工場と清州城の見学に行く。その仕切り役を仰せつかって見学受け入れ側の官と民の対応の格差の大きさに愕然とした。この場合の官というのは清須市役所のことだが、清須そのものが何か運命的なDNAを織田信長の時代から引きずっているのではないかとさえ思えてきた。



具体的にはこんなことがあった。当初35人の見学者で清洲城周辺散策のガイドの申し込みをした。火曜木曜土曜日だったらガイド料は無料だが、水曜なので運営協力金1人100円とのことでそれは当方も了承した。4月下旬に45人の変更申し入れをした。その際、窓口である市役所産業課の中にある観光協会では担当者が人事異動で変わったとのことで3回も電話のたらいまわし


挙句の果て、夜7時頃になってボランティアさんから直接我が家に電話。話を聞くとガイド料は45人×100円でなく、2000円頭打ちとのこと。当初申込みの際もそんな話は一切なかった。このあいまいさには恐れ入った。



そもそも「きよす」自体、清須と書いたり清州と書いたりあいまいだ。平成の大合併までは清洲町で周辺との合併で清須市となった。城は清洲城も清須城も歴史的には正しいらしい。古い文献には両方の記述があるとのことだ。ただ、見学する施設としては清洲城そして「天守閣」でなく「天主閣」と表記している。なんとややこしい、曖昧さだ。この出来事ひとつで清須のすべてがあいまいだと決めつけるわけには行かないが、歴史の流れの中でみてみると運命的にそんなDNAをひきずっているのではないかと思いたくなる。



清須は、鎌倉街道と伊勢街道が合流する「交通の要」で戦国の武将は誰もが手に入れたい地であった。こうした好位置にあって清須城は歴史の節目節目に登場しながらも、歴史に翻弄されて消えて行った。時系列に拾ってみると、桶狭間の戦い織田信長が清須から戦へ出向いた。3年後には美濃の斉藤氏との戦いに備え小牧山城に移り、信長は清須に3年居ただけだ。

       
本能寺の変の後に行われた信長の後継者を決める会議(清須会議)も清須城を舞台に繰り広げられた。徳川義直の頃には、清須城下は人口6万人を数える賑わいを見せていたが、家康の命で町ごと名古屋に移転(清須越し)の憂き目に遭い廃城となった。現代になって城址東海道線と新幹線に分断され、城下町自体も名鉄線、名古屋高速、名二環に分断されてしまっている。


清須城は信長の時代から廃城になって今に至るまで歴史に翻弄されて、軸を失い曖昧さだけが浮き彫りにされるようなDNAを引きずっているような気がしてならない。