劇場型政治に思う


台風18号が走り抜けておよそ5日。街中や野の景色がめっきり秋らしくなった。あちらこちらで黄色が目に飛び込んでくる。グラウンドゴルフに打ち興じるグランド沿いの銀杏並木の黄葉だ。野を歩けば、セイダカアワダチソウが丘陵の斜面で我が物顔に伸びて、まるでセイダカアワダチソウの森の様相だ。


米大統領選の両候補者討論会や日本の国会予算委員会の質疑応答の内容をテレビ新聞で”拾い見聞”すると、「天下国家」を論じて国民にアピールするはずの人達が目先のことばかりにとらわれ過ぎているのが歯がゆくてならない。



きのうの日記にもふれたが米大統領両候補2回目討論会、なんと次元の低いことか。世界の警察を任ずる米国のこの先4年間の世界戦略はどうなるかなど、米国だけでなく世界中が注目しているのだ。共和党良識派はリングにタオルを投げ込みたくて、やきもきしているのではないだろうか。


「女性蔑視オレは言葉だけだが、クリントンの夫は行動だった」とうそぶくトランプ。そして、クリントンの相手の女性をわざわざ討論会に出席させている。こうなると痴話げんかのレベルだ。司会者が討論をリードして行くようなスタイルはとれないものか?



翻って、わが国会。代表が交代して、政権批判ばかりでなく代案を提案していく党に。と殊勝なことをいう新代表だと思ったが・・・。相変わらず、新米大臣に揚げ足取りの集中砲火。数年前の雑誌の対談での発言を雑誌を渡して朗読させる始末。大臣にとっては屈辱だろう。大臣の立場になれば数年前に云ったことと認識が違ってくることも当然だろう。


労働組合の委員長が上場会社の社長になることだってザラにある。立場が変われば変節があって当然なのだ。こんなことに「うつつ」をぬかしているから、政権交代可能な数が集まらないのだ。自衛隊も日米同盟も認めるだろう。それなら政権与党との対立軸がこれだとはっきりさせて切り込むことが必要でないだろうか。


大統領選の討論会にしても日本の国会にしても、重要なことが議論されているだろうが、メディアでは大衆受けすることが大々的に取り上げられる。いきおい大衆の耳目はそちらに向いてしまう。劇場型政治の責任の一端はメディアにもあると思う。