コミュニティー施設としての神社


週替わりと月替わりが同時にやって来て10月だ。衣替え。政界も大がかりな衣替え。今月22日の選挙の結果が見ものだ。ラジオ深夜便によるきょう10月2日の誕生日の花はキンモクセイだ。いつもなら、この時期、ウォーキング中やグラウンドゴルフのプレイ中にどこからともなく、あの独特な芳香が漂ってくるが、今年はまだその気配がない。


それまで匂わなかったのに、ある日突然にどの花も一斉に匂い出し、咲いた後で雨風があるとあっけなく散ってしまうのがキンモクセイの特徴のようだ。誰かが云っていた。キンモクセイの香りは、一昔前のトイレの芳香剤の匂いだと。


7年前の今頃、中国の桂林に旅行した。桂林空港に降り立つと甘〜いキンモクセイの香りが歓迎してくれた。この花中国名が桂花といい、秋になると街中に咲き乱れることから桂林の地名がついたとガイドの説明だった。



秋祭りのシーズンだ。今、わが地域の神社の秋祭りが存亡の危機に瀕している。この神社は、半世紀以上前に開拓で入ってきた人たちが、”心のよりどころ”として伊勢神宮から分祀を授かって建立し、維持して来た。住宅開発が進み、地域は新住民が圧倒的多数になった。


開拓一世の数が少なくなり、7.8年前までは、それでも開拓一世を顧問にして新住民で神社の維持、運営をして来た。この2.3年は氏子役員の引き受け手がなくなり、「初穂料」と称する寄付金を集める者もいなくなり、運営費が枯渇している。祭礼を地域の行事として地域で引き受けようとする提案があったが、総会で政教分離を盾に否決された。



現在はボランティアで神社の維持、祭礼の運営を行っている。自分も10年ほど前3年にわたって氏子役員を仰せつかった手前、放っておくわけには行かず、土曜日に神社の清掃や祭りの準備をした。氏子総代もボランティアでやっているが、歳も歳。5年先を考えると心が痛む。開拓二世がまったくノータッチの点が何とかならぬかと思う。


わが地域の神社は社務所があって専従の神職がいるわけでもなし、ましてや布教活動をするわけでもなし。「おひとりさん」が増え、「遠くの親せきより近くの他人」の存在感が増すばかりだ。家庭や仕事以外では人との関わりを持ちたがらない人たちも巻き込まないと地域社会は回らない。神社が鎮守の森であると同時にコミュニティー施設としての役割は大きい。                             




開拓一世の人達が顧問としてやっていた時代には祭礼の餅づくりに50人以上のボランティアが集まり賑やかだった。コミュニティー宗教としての存在感があった。そのようなコミュニティー宗教にまで「政教分離」を振りかざすのは、家庭や仕事以外では人との関わりを持ちたくない人の屁理屈に過ぎないのではないだろうか。


地域の神社もコミュニティー施設としての機能を果たす時代になったのではないだろうか。