メーデー戦後史


連休の谷間の2日目。予報通りお昼頃から雨。夜半には嵐になるかもとの予報まである。「死ぬまで連休族」にはたいした問題ではないが・・・。


きのう5月1日はメーデーだった。メーデーも死語になってしまったかと思われるほど、影が薄い存在になってしまった。労組の全国最大連合組織「連合」主催のメーデーの祭典も最近は5月1日ではなく、4月の最終土曜か日曜に行われるようになり、その報道も新聞では小さな活字で扱われている。まったくもって、影が薄い。


終戦直後のメーデーと比べたら隔世の感だ。何年か前の日経デジタル版のコラムで、そのときの様子を伝える記事があった。生涯学習講座の「自分史作り」で引用した。
                         

<70年前(昭和21年1946年)のきょう、25万人の人達が皇居前の広場を埋めた。「飯米獲得人民大会」と銘打った「コメよこせ」デモで「食糧メーデー」ともいわれた。背景にあったのは当時の食糧難だった。100万を超える人が飢え死にしかねない。そんな恐ろしい予測もあったらしい。


さいわい、餓死が相次ぐようなことはなく、10年もしないうちに日本経済はめざましい発展の軌道に乗った。いまでは、食糧の増産ではなく出生率の向上こそが、国民的な課題となっている。70年余りの間にこの国がたどった変化の大きさに、今さらながら目を見張らされる。同時に、食べるのに困らない日々を感謝したい。>




1枚のモノクロ写真は昭和30年(1955)の多治見のメーデーの模様だ。日経のコラムで「10年もしないうちに日本経済はめざましい発展・・・」と述べている、あの食糧メーデーから9年目の年だ。多治見駅前広場で集会をして、大型トラックを先頭にプラカードを持った行列が延々と300mは続いていた記憶だ。クマさん中学2年生だった。


自分の家の前を行列が通るので、初心者用カメラ「スタートカメラ」で何枚も撮った。あまり記憶が定かではないが、その時の雰囲気は「食糧メーデー」のような悲愴感が漂うようなものはなかった。実家が本屋で学校の先生の出入りが多く、顔なじみの先生たちがにこにこしながら手を振って行進していた。



戦後10年のこの頃になると、メーデーも「生きるための米よこせ」闘争から「生活向上、労働者の権利」闘争に変わって来たようだ。それが、「昔陸軍、今総評」と泣く子も黙るほどの存在感で労働組合も経済発展と共に成長した。今、成熟した社会の中での労組の存在感は如何なものだろうか?



最新のデータで雇われている人たちの中で、どれだけの人が労組に所属しているかの割合、「労組組織率」は17.5%だそうだ。労使紛争を解決する第三者機関として中央労働委員会地方労働委員会がある。労働側委員として労組連合組織から委員が出席するが、2割にも満たない組織率の中から出て来る委員が果たして労働者代表と云えるだろうか?


毎年の春闘に至っては、安倍内閣になってからは、政府が経営側と賃金交渉をして組合側の存在感がなくなってしまっている。革新政党の支持母体になり革新的な組織のはずの労組が、保守政党より保守的なメンツばかりを重んじる組織と化している感が否めない。


日経デジタル版のコラムとクマさんの撮った写真と労組の現状を現場から離れて見渡すと戦後史の一断面を垣間見た思いだ。