「平成」から「令和」へ

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平成最後の月、4月の1日。字面だと”陽春”の印象を受けるが、現実は冬型の気圧配置で空は青いが、風が冷たい。東京では桜が満開だけれど、わが三好丘ではまだ二・三分咲きだ。日記で調べると、わが家のすぐ下の四つ池では、昨18年は3月25日開花、28日満開。一昨年17年は4月5日二・三分咲き10日満開。今年はその中間を行って、3月29日開花、4月1日二・三分咲き。満開は5日頃だろう。

 

北西の季節風をまともに受ける四つ池とは違って、周囲に建物や防風林のある公民館の敷地内に半世紀以上も前の開拓の開拓碑と共に植樹されたソメイヨシンの大木がある。これが、いま満開だ。ベテランらしい風格がある。

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5月から始まる新しい元号「令和」が発表された。皇位の譲位が生前に行われることによる改元だから、歴史的出来事だ。エプリルフールでなく、事実としてリアルタイムに、テレビを通じて、このイベントに立ち会えたことは喜ばしいことだ。

 

日常生活ではすべて西暦で用が足りてしまうし、政府が時の呼び名を改めたからといって、急に世の中が変わるわけでもなかろう。こんな見方をしている新聞のコラムがあった。そりゃ、そうかもしれんが、それを言っちゃおしめぇだよ。と、言いたい。

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 西暦だって、言ってみりゃキリスト教の暦に過ぎないのではないか。グローバル時代のいま、それが世界標準になっているから実務面では必要不可欠だろう。「明治は遠くになりにけり」「大正ロマン」「昭和ひとけた生まれ」「平成の怪物」と時代をとらえたり、ある共通点・特徴を持った人たちの一群をとらえるには元号はたしかに便利だ。

 

 元号は日本の歴史そのものであり、文化であると思う。物事を捉えるのに長い物差し(西暦)と短い物差し(元号)を使えば「森」だけあるいは「木」だけでなく複眼的に捉えることができるということもある。「今や日本の元号制度は世界でただ一つの存在」と自虐的な見解を示すメディアがあるが、年の呼び方をふたつ併用することがそんなに害悪だろうか?天皇制を否定する集団にはそううつるかもしれない。

 

現に、1400年にも亘って続いているこの制度だ。「令和」には明日への希望と共に日本人ひとりひとりが大きな花を咲かせるという願いが込められている。と安倍総理は記者会見で述べていた。素直に、それを信じよう。