いじめ


昨日のラジオで14日の早朝にふたご座流星群が観察できると云っていた。3時頃に目が覚めたがまだ1時間早いともうひと寝入り。再び目が覚めたら6時半過ぎ。流星群は見られなくても、澄んだ空気の冬の夜明けはすばらしい。夜明けのあかりが漆黒の枯れ木のシルエットを見事に映し出している。この美しさは想像を超えたまさにマジック以上だ。



ウォーキングの時、ご近所さんふたりから期せずして異口同音にけさの日の出の空が美しかった。誰もが認めるこの美しい夜明けの空の写真を撮っておいてよかった。と、ひとりほくそ笑む。 欲を言えばコンパクトカメラでなく一眼レフの方で撮ればもっとよかった。


相変わらず「いじめ」に関する報道が後を絶たない。自分がガキだった頃と比べて、どこが違っているかを考えると我々の時代は、いわゆる世間の常識を学校・家庭よりむしろ地域・ガキ同士から学んだことが多かったような気がする。

● 立小便をしていると近所のおじさんが「みみずに小便をかけると・・・」と叱る。

● 縁台で夕涼みをしていて口笛を吹くと、近所のおじさん、おばさんが「夜、口笛を吹くとサーカスに連れて行かれる」と注意される。

● 「泥棒・巡査」で遊んでいて、上級生は下級生を縄で縛るときは手心を加える。


「いじめ」は教育基本法が改正されようが、共産主義の国になろうが人間社会がある限りなくなるはずがない。いじめられる者に手を差し伸べる心、いじめにあうスキをつくらない心構え。このようなものは学校で教えられるものではない。家庭・地域で自然に醸成されるものであると思う。


我々のガキの頃と比べると社会構造が変化した(核家族化をはじめとして教師が聖職者から労働者に変化したことなど)から学校・地域・家庭の果たす役目も自ずと変わって来るのは当然だが、今は余りにも学校にお任せになっているような気がしてならない。