歴史散歩 長篠の戦い

午前中の青空も午後には曇り空。風がなく過ごしやすい一日。生涯学習講座の歴史散歩「古戦場を訪ねる」の2回目のきょうは長篠の戦い新城市の長篠・設楽原の古戦場を訪ねた。奇しくも先週の桶狭間と今週で戦国時代の合戦ランキング1位と2位を訪ねたことになる。



1575年1万5千の軍を率いた武田勝頼長篠城が囲まれた。城主奥平貞昌は織田・徳川の援軍3万8千を得て、その決戦の地が設楽原(したらがはら)だったため長篠設楽原の戦いともいわれる。



この戦いが合戦ランキング2位に入るようなインパクトがどこにあったか。2時間や3時間の説明を聞いただけでの推理で間違っているかもしれないがそれなりの推理をしてみた。

1.当時最強と言われた武田の騎馬隊は成すすべもなく打ち負かされ没落の途につき、織田・徳川の勢力が絶対的なものになったターニングポイントの戦いであった。

2.火縄銃の弱点である「次の発射までに時間がかかること」を克服した「三段構えの一斉射撃」法により衝撃的な威力を見せ付けた。



● 馬防柵
長篠設楽原の合戦といえば鉄砲はもちろんだが、もうひとつ特徴的なのは、この馬防柵。最強と恐れられていた武田の騎馬軍団に対抗するために信長が考えだした作戦といわれる。信長が川のすぐ手前に馬防柵を約2kmに渡って築いたことは、設楽原に一つの巨大なお城を築いたと同じ意味があったといわれるほど武田の騎馬軍団にダメージを与えた。


● へぇ〜
1.1543年種子島にもたらされたたった2丁の火縄銃、32年後の長篠・設楽原の戦いでは織田・徳川連合軍で3千丁、武田軍で5百丁持っていたといわれる。戦争はいつの世でも軍需産業を発展させる。

2.長篠・設楽原の戦いでは織田・徳川連合軍に羽柴秀吉も入っていた。三英傑が同じ陣営を組んでいた。