明治の傑人 岸田吟香


週末からの3連休はすべて三寒四温の”寒”の域に入って連日氷点下の朝と冷たい風。日曜日、豊田の郷土資料館特別展「明治の傑人 岸田吟香」を見た。文明開化の時代、日本初の数々の事業に関わった傑人、岸田吟香豊田市の前身、挙母(ころも)藩の藩士であった関係で開かれた。大正から昭和初期にかけて活躍した「麗子肖像」などでお馴染みの岸田劉生(きしだりゅうせい)は吟香の四男である。



江戸時代挙母藩内藤家には美作国岡山県)に飛び地があった。天保4年(1833年)にそこで岸田吟香は誕生。吟香は江戸で学問修行に励みやがて挙母藩士になる。しかし、武家社会に嫌気がさして脱藩し、江戸で左官の助手、八百屋の荷担ぎなどで食いつなぎながら復活の機会を狙っていた。その後は「日本初」となる事業に次々と関わることになる。


吟香は横浜でヘボン博士から目の治療を受け、博士の辞書つくりを手伝う一方で日本初の日々の出来事を記事にして定期的に刊行する「新聞紙」を発刊した。ここに日本初のニュースペーパーの創刊と新聞記者の誕生があった。元治元年(1864年)のことだった。



ヘボンが施した目薬で目は完治し、吟香は漢学、和学に詳しく武士・町民・百姓の言葉に通じているので博士から辞書編纂の手伝いを依頼された。慶応2年(1866年)に日本初の本格的和英辞書「和英語林集成」は出来上がった。日本語を横組みで印刷した初めての辞書。当時の日本の印刷技術では印刷が困難なため上海で印刷をした。




吟香はヘボンから目薬の処方を学び、慶応3年(1867年)に日本初の液体目薬「精贒水」(せいきすい)の販売を始めた。この目薬の容器は当時としては先進的なガラス瓶だった。日本の瓶に初めてコルク栓を用いたことでも有名。


文明開化の時代に吟香が先鞭をつけたのは、その他にも石油掘削、製氷、江戸・横浜間の定期船航路、日本初の従軍記者として台湾同行、盲学校の設立、中国に蔓延するアヘンを憂慮しての支援活動など数知れない。これらの活動は体制側とは常に距離を置き庶民の目線に立つものだった。


時機を見た決断と並はずれた行動力で幕末から文明開化の時代を生き抜いた吟香の心意気が展覧会の中から伝わってきた。