酸ヶ湯・八甲田


春を呼び込んだ昨夜からの雨も予報通り午前中には上がり、午後には柔らかな春の日射しだ。来週の火曜3/5は二十四節気の「啓蟄(けいちつ)で、冬の間土の下で冬ごもりをしていた虫や蛙が春の気配を感じて地上に出てくる時期と云われる頃だ。とはいうものの、まだまだ寒の戻りは覚悟せねばなるまい。


今世紀最大級の寒波の襲来により青森の八甲田山の麓の温泉地、酸ヶ湯(すかゆ)で5.5mを超す積雪を観測したことが話題になっている。この「酸ヶ湯八甲田山」を耳目にするたびに、それらにまつわる思い出が走馬灯のように脳裏に浮かんでくる。


半世紀前の学生時代、酸ヶ湯温泉で泊まって八甲田大岳登山をした。今はロープウェーがあるが当時はなかった。至る所に硫黄がむき出しになっている登山道で、あの匂いに悩まされて死ぬ思いの登山だった。


現役時代、新田次郎により「八甲田死の彷徨」として小説化された明治の末期に起きた陸軍の八甲田雪中行軍遭難事件を題材に企業の組織論を上司から事あるごとに聞かされてうんざりするほどだったこと。そして、自分がその立場になったらちゃっかりそのネタを拝借してあちこちで話をしたことなど、いろいろと思い出される。


確かに、八甲田山における歴史的な惨劇は、多くのことを我々に教えている。同じ時期に八甲田山麗に分け入った青森隊と弘前隊の2つの行軍隊は、一方は199人の死者を出しほぼ全滅、一方は犠牲者なしで見事に完遂という極端な結果となった。この結果を比較することで、組織が業務を遂行する上での重要な点が分かる。


弘前隊は、命令系統をひとつにし、やる気のある志願者のみを集め、事前に情報収集や食事の手配・訓練などの準備をきちんと行い、本番に望んでいる。これに対し、青森隊は準備期間が短く、大所帯で、命令系統が最後まで統一できなかったため隊員の意思統一ができず、任務が遂行できなかった。


そもそも、何のための訓練だったか?この事件の2年後に日露戦争が始まった。事件の起きた当時、ロシア艦隊が海上から攻めて来ることを想定していた。後背地の八甲田山麓を確保するための訓練だった。日露戦争で本土が主戦場になることはなかったが、この経験は満州という酷寒地での戦いに役立つことになったと云われている。八甲田山こそ近代日本の「雪との闘い」の原点であり、自分が人前で話をすることの原点でもあったと云っても過言でない。