サッカーには「不条理」つきもの


気持ちよく晴れ上がった朝、8時スタートのウォーキングでは汗ばむ陽気だ。ポールウォーキングも手と足の動きのバランスが上手くとれるようになった。一汗かいて一服。キウイフルーツの棚で花が咲き始めた。八朔、ジャスミンに続いてキウイと花が咲き始めてすがすがしい初夏の季節感へと自然が躍動をはじめた。


おとといの5月15日はJリーグが発足して20周年だという。「20年」というと「失われた」と枕詞(まくらことば)がつくのが通り相場になっているが、人気、実力、努力の積み重ねに見合う収穫があった数少ない例外にサッカーは挙げられるだろう。


その「Jリーグ20周年記念試合」として行われた浦和対鹿島戦で審判が正しい判定をすれば決勝ゴールはなかったことになり戦いの行方もわからなかった。日本サッカー協会の審判委員会は「得点が認められるべきでなかった」と誤審を認め、わざわざ説明機会を設けたという。


相撲が、野球がビデオ判定に頼るようになったが、サッカーだけは審判が絶対的な権限を持って毅然とした態度で試合を裁くものだと思っていた。アルゼンチンのマドラーナの「神の手」は、サッカーファンでもない自分でさえ知っている。サッカーには「不条理」はつきもの。それをプレーヤーも観客も耐えるものだということが脈々と続いているものだと自分は思っていた。


誤審を認め、説明機会を設ける。確かに民主的に違いないが、サッカーのサッカーたる所以の一角が崩れたような感じがする。