古橋懐古館


強い雨脚が紫陽花の花にたたきつける」こんな表現がぴったりの梅雨模様。台風4号も影響しているようだ。生涯学習講座歴史散歩「塩の道」の最終回は水別峠から武節宿(稲武)への現地探訪。こんな天気になったので、稲武の郷土資料館ちゅーま、武節城址、古橋懐古館だけとなった。 メインは古橋懐古館。元同僚のH君がリタイヤー後故郷に戻り、この財団の常務理事をしていて彼が説明役をしてくれるということだったので楽しみにしていた。2年前個人で見学に行って彼から受けた説明より、きょうは随分熱が入っていた。



古橋家は 今から約300年前、初代が中津川からこの地に移住し、代々酒造を生業としてきた旧家。6代目にあたる暉皃氏は国学に傾倒し、文久3年(1863)、江戸に上り、平田銕胤の門に入る。これを機に、国学者儒学者・勤王家・経世家などの書画を収集していくことになる。その子7代義真氏がこれを受け継ぎ、一貫した思想で意図的に収集し。明治の変革期に当り、その広い交友と資質とにより、収集の分野を広めて行く。その子供にあたる8代道紀氏もよくこれを護持継承し、昭和20年末、その死去に際し、遺言により、山林1千余町歩と共に、これら秘蔵品も併せ寄付し、財団法人古橋会を創設した。


お世辞にも洗練された展示の仕方とはいえないレトロ感覚の雰囲気の中、おびただしい程の書画の間をぬってひっそりと、静かな時間が流れて行く感じだ。NHK大河ドラマ最近でいえば「八重の桜」とか「竜馬伝」などを見て幕末の歴史に興味のある人にはお宝もんの書画の山だ。これらの歴史上の人物本人が実際にしたためたもの。墨をすり、筆を走らせた本物の書である。




民俗史料も数々展示してある。これは茶桶。NHKで全国放送されたら反響があった代物。博物館の学芸員から全国で唯一の現存品とお墨付きをもらったものらしい。古橋家6代源六郎暉皃は衰退した家運の挽回に努力していたが、茶の湯の作法を知らずに恥じていた。あるとき、「茶の湯は隠遁者のすること。農民は茶の湯などに没頭せず、農業のことを考えろ。」という文章に触れ、納得し農業に集中したという。そんな当時使われていた茶器まがいの茶桶。





古橋家6代源六郎暉皃は、加茂地域(豊田市)では飢饉のため飢え死にする者がでたので、稲武での一揆を防ぐため農民に食料の備蓄を奨励をするとともに雛飾りや鯉のぼりを中止させた。7代源六郎義真の娘が三好村に嫁ぎ明治31年に孫娘が生まれた。同村では雛祭りをするのでお雛様一式を贈った。昭和46年古橋懐古館が全面オープンした際にこのお雛様が里帰りした。


西郷隆盛勝海舟坂本竜馬高杉晋作徳川斉昭徳川慶喜などの書。渡辺崋山、土佐光起などの画。史料として1級品ぞろいだ。これだけのものを一財団法人で維持管理して行くのは大変だろう。宝の山をもっと世に知らしめ、史料の劣化を防ぐよう維持管理して行くにはどうしたもんだろう?