新聞の品格と新聞小説


きのうの雨もあがり、日中は晴れ間が顔をのぞかせ、風もひんやりとして心地よい。おとといの夜、今年もサボテンの花が咲いた。どこからか嫁に来たものもので、ネットで調べると「金鯱(きんしゃち)サボテン」というらしい。ご近所さんが来て、「サボテンは砂漠に生えているので、水をやらなくてよい。」などというが、決してそんなことはない。それとか「サボテンは花が咲かない。」というが、ちゃんとこの通り咲いている。夜に咲いて、朝にはしぼんでいる。


きのうのメイパパさんノカキコ。新聞離れを論じておられた。そういえば、7〜8年前日経新聞渡辺淳一の「愛の流刑地」が連載されていた。当時は現役で、出社するとまずこの連載小説を読むのが日課だった。同僚たちと酒席で品格ある日経たるものがあんなエロ小説を連載するとは何事か、新聞離れ防止のためにやっているのか、日経も落ちたものだ。などと論ずるものやら、いや、いや、それは違うと云う者で賑やかだったことを思い出した。


その時、クマさんはこんな意見を云ったと記憶する。「性」を扱ったものがすべて品格がないと断じることは危険だ。「母なる大地は、父なる天の恵みにより受胎する」との古代からの民俗思想を研究して行くと田県神社の豊年祭りは避けて通れない。仏教美術をはじめとする古代美術を研究して行けば「性」の問題は避けて通れない。


学術研究するのは「品格」があって庶民レベルの行動、言動は「品」がないのか?そうではない。古代の庶民レベルの行動、言動を研究するのが民俗学であり、文化人類学であると思う。


スポーツ紙で連載されればエロ小説で通る小説が、渡辺淳一というネームバリューと連載された新聞が日経と云うクオリティーペーパー。そのギャップが世間の注目を浴びたということだろう。もっと、本音を云えばスポーツ紙を堂々と読むのが部下の手前憚れる連中が堂々と新聞を広げて読めるから大いに話題を呼んだとということだろう。