地域の神社の役割


雨がらみの週末。きのうの日曜は最高気温が20度を切って肌寒ささえ覚える終日の雨。先週は26号、今週は27号と28号で2週連続で台風に見舞われるのではないかと気がかりな週明けだ。


その気がかりな週明けの朝、カーテンを開けるとここは北京でもないのに一面白いベールに覆われた世界ではないか。もしかしたら中国からのPM2.5の襲来か?そんなことまで考えてしまうけさの霧だ。この地に越してきて18年、初めて経験する濃霧だ。


この霧が発生するメカニズムをネットで調べると暖かい四つ池の水面上に冷たい空気が入り、水面から蒸発がおき、その水蒸気が冷たい空気に冷やされて発生するもののようだ。    

高校時代の同級生が多治見で週刊のコミュニティー新聞を発刊している。親の代からの二代目。東濃5市がエリアで50年の歴史のある新聞だ。リタイヤーしてからは毎週郵送してもらって購読者となっている。彼は毎週「東濃春秋」というコラムを執筆している。


今、日本全国どこに行っても秋祭りの時節柄、先週号のコラム欄にこんな記事を書いていた。<7年ぶりに神社の役がまわってきて秋祭りを迎えた。今回は前回と比べどうも勝手が違う。各神社とも祭礼が以前のようにスムーズにはかどらなくて役員達が困っているようだ。                                  


大方は他地区から来た人達が寄付を拒否したり宗教の関係で出られないということのようだ。祭りに関わることそのものが憲法違反だと言い出す人もいる始末。「自分は宗教が違うが寄付もお手伝いもさせてもらいます。」と申し出てきた人があったときは救われた気がした。近所付き合いこそ大切にしたものだ>と結んでいた。


自分も3年間氏子の役を仰せつかって同じようなことを感じた。今全国にどれだけの数の神社があるか知らないが、日本の産業構造と同じで大企業(大神社)の数は全体の数%、90数%が中小零細企業(零細神社)のはずだ。             


わが地域の神社も零細神社で社務所があって専従の神職がいるわけでもなし、ましてや布教活動をするわけでもなし。「おひとりさん」が増え「遠くの親せきより近くの他人」の存在意義が増すばかりだ。地域の神社が鎮守の森であると同時にわが地域のような新興住宅ではコミュニティー施設としての役割が重くなりつつあるような気がする。政教分離という声もささやかれる中で。