窯業中心地だった三好


予報がはずれ、陽射しは全くなく終日どんよりとした曇り空。


先週の26号がやってきた日の朝、門扉に珍客が・・・。動物の勘で、台風が近づくのを察知して、避難場所をさがしているのか。それとも、本格的な秋になってエサがなくノコノコとでてきたものか。ズームアップしてみるとまるでエイリアンに出会ったようだ。




                 生涯学習講座「ふるさとの文化財を訪ねる」で市内にある猿投窯(黒笹27号)の発掘保存されたものを見学した。三好丘から車で10分とかからない距離だ。なだらかな丘陵の斜面に保存されている。


● 愛知用水の工事が日本の古代史の謎を解きあかした。
奈良時代宮中や寺社などで使われていた高級な須恵器がどこで作られたものであるかが古代史の謎のひとつであった。昭和30年代の初め愛知用水の工事の際偶然古窯群が発見された。三好で発掘された約200基の窯跡でその謎が解けた。


● 猿投古窯群とは
縄文土器弥生土器とは違って高温で焼いた良質なやきもの、須恵器を伝えたのは5世紀のはじめ朝鮮半島からやってきた渡来人だった。日本で最初の窯は大阪の須惠村。この地方では名古屋の東山に最初に伝わり、7世紀に日進、鳴海、8世紀に三好、刈谷に伝わった。これらの地域は良質な粘土、水、薪、窯を造るのに適した斜面の条件を備えていた。約20平方kmにわたるこれらの1000基にも及ぶ古窯群を猿投山西南麓古窯跡群という。


● 奈良・平安時代、日本最大の窯業中心地だった三好
三好には8世紀(奈良時代)に須恵器の技術が伝わり、平安時代になると中国の青磁に似せた最高級品をつくり貴族の間でもてはやされ、日本最大の窯業中心地として隆盛をきわめた。


● 武士の世になり、技術流出。衰退の三好の窯業
鎌倉時代になり、顧客は貴族から地方の武士になる。製品は粗末な山茶碗。高い技術を持った工人は瀬戸や常滑に流れてしまった。次第に三好では陶器が作られなくなって猿投窯の歴史は終わった。瀬戸焼常滑焼のルーツは三好と云っても過言ではない。