「どうせ・・・」


冷たい風、鈍い日差しながらおおむね晴れといった日が続く。きょうもそんな一日。鉢植えのカランコエを昨シーズンは温室に入れて冬越ししたが、今シーズンは部屋に入れるだけにしたらきのうやっと最初の一輪が咲いた。温室で冬越しした去年は2月5日に下の写真の状態だ。モノを云わないが生き物は正直だ。



3人の娘たちが嫁いでしまって、彼女らが使っていた部屋の雨戸の開け閉めは毎日のお父さんの決められた仕事なのだ。合理主義者なのか面倒くさがりやなのか、おとうさんは、どうせ使わない部屋なら毎日、毎日開け閉めする必要があるのかと自問自答を繰り返しながら、しぶしぶやっているのだ。


ことほどさように、温室で冬越しさせるとなると温室の中を整理して大変だ。どうせ霜にあたらなようにすればいいのなら部屋の中で仮住まいさせてやれば、その方が簡単なことだとやったのがこの結果だ。


こんなお父さんを戒める話がかつて朝日新聞天声人語に載っていた。「浜までは海女も蓑着る時雨かな」という江戸時代の俳人の句を引き合いに出して「最後の最後まで、生きるために力を尽くすのが美しい・・・・浜まで身を大切にする人は、海に入ってからもいい働きをする」と「どうせ」の思考にクギを刺している。


そして、さらに「どうせ××だから」との判断は人生を小さくすると戒め、逆境や失敗を糧にする生き方にエールを送っている。そういえば、学生時代にはどうせ帰ってきたらまた寝るのだからこの方が合理的だと万年床だった。たかが、「雨戸」や「万年床」「植木鉢」、されど「雨戸」や「万年床」や「植木鉢」。人の生き様を写しだしている。