われら避難民


雨も朝方にはやんだ。梅雨空から時折鈍い日差しの一日。焼けつくような太陽に似合いの花、グロリオサが路傍に、あちこちのお宅の庭で咲き始めた。夏、赤で黄色いふちの、波状の、ねじれたような花が咲く。くっきり、とても鮮やかだ。炎天下で咲いていると、あの花が「炎」という字に見えてくるのは、クマさんだけではないだろう。


用事があって保見団地へ行った。昭和53年から18年間住んでいた。ウチから車で7.8分の距離だ。ブラジル人が多いということですっかり有名になった団地だ。外周道路の内側に公団と県営の高層住宅。外側に民間の分譲住宅で最盛期には1万2千人余りの規模だった。現在では団地内に住む外国籍住民は全住民の45%にのぼり、団地内2小学校の内1校は外国人児童が全児童の54%を占める。



団地の中心にあるスーパー。かっては名鉄のスーパーで繁盛していた。長女も大学生の頃、ここでアルバイトをしていた。今はブラジル人向けのスーパー、フォックスタウンになっている。昼少し前に行ったが閑散としていた。中に入ると、当然のことながら、外国のスーパーに来たかと錯覚を起こす。


無料配布の求人情報誌がラックに並んでいるが、もちろんポルトガル語インカコーラ、コーヒーなど初めて見るものばかりだ。



「寮は無料、特別手当10万円、社員への登用制度あり」人手不足が深刻になりつつあるトヨタ期間従業員募集だ。3月に受講したブラジル講座で先生が話していた。08年のリーマンショック後毎月1万人ほどの若者がブラジルに帰国した。しかし、仕事に定着できず12年頃から再び日本への出稼ぎが多くなった。と。


アベノミクスの成長戦略で1億人の人口を維持のためには移民の受け入れも選択肢に入って議論の俎上に上がっている。



移民の受け入れを議論する場合に保見団地の辿ったケースはひとつのモデルになるのではないだろうか。80年代後半から、自動車関連企業へと出稼ぎに来たブラジル人が多く住むようになる。その後も増え続け、日本人と彼らと様々なトラブルや問題が起きるようになる。その結果、両者の間には軋轢が生じることとなった。


99年(平成11年)には、機動隊が出動するという暴動寸前の事態まで発生した。これを受けて、自治体の対外国人行政が飛躍的に進むこととなった。更に現在では、NGOやボランティア団体などが団地内で外国人住民への教育や、外国人住民と日本人住民との積極的な交流促進活動が行われるようになったと云われる。



外国人とのトラブルを避けるというより保見団地のイメージダウンで地価が下がり家が高く売れなくなるという打算から95年(平成7年)にいち早く保見から逃げ出し三好丘に来てしまった自分が、保見団地が移民受け入れのモデルになるなどとえらそいうなことを云えたものではないことは百も承知のこと。


実際、三好丘には保見団地から越して来た人が自分の周りにもかなりの数ある。われら、避難民だ。