「遊び」


朝から冷たい雨が降ったりやんだり。予報では全国的に冬将軍のお出ましらしい。暦が1枚めくれたら正直に冬がやって来るものだ。


1週間も前の写真だが、ウォーキングの沿道にオレンジ色のクチナシの実が日に日に濃くなってきた。先日、緑化センターでガイドの先生が云っていた。クチナシは一重咲きのものには実がなるが、八重咲きにはつかないと。実の口が開かないことから”口なし”の名になったとも。きんとんやたくあんの無添加着色料でカミさんの友達に重宝がられているようだ。


下の写真はウチのビワの花。まったく地味な花だ。地味なクマさんチにふさわしい花だ。


きのうは公民館で家庭菜園の年次総会と収穫祭。50数区画ある。開園以来10数年。自分は当初からの会員だが、その間に随分と会員も入れ替わっている。普段、畑で顔を合せても表向きの挨拶や会話位で終わっている人たちともこういう機会になると込み入った話まで出来てなかなかいいものだ。                                     


リタイヤーしたと見受けられる人に今、何をしているかとたずねると働いてないことを恥じるような意味合いを込めて「遊んでる」と答える人がこの場に限らず他の場でもかなりいる。そういう人にとっては「労働=善」「遊び=悪」に思えるのではないだろうか。


リタイヤーした老人にとって「遊び」とは色々な束縛から解放されて自分のしたいことをしたいようにすることだと思う。先日ある方が新聞のコラムで述べていた。日本人の多くは「べき人間」だ。何々すべきだ、すべきでないといった流れの中で生きている。老いとともに「たい人間」になってもいいのではないか。と。


そんなことを云うと前述の人たちは「遊ぶべき」だと真剣に考えるのではないだろうか。「するべき」という考えに支配されずに、したい時にしたいことをする。これが、われらサンデー毎日族の特権なのだ。


色々な機会に色々な人に会って話をすることは「遊び」上手になるヒントをもらう場でもある。