なぜ、賽銭を投げる?


久しぶりの雲ひとつない青空。日差しにぬくもりが感じられる日になった。新しい年が明けて日の出の時刻はずっと7時01分が続いている。日の入りの時刻はどうかと云えば元旦の4時51分がきのうで5時になった。1日1日と日が長くなっているわけだが、夕方が明るくなることで春の訪れが近いことを実感する。


グラウンドゴルフ仲間のお宅でロウバイが咲いたと云うので早速訪ねた。ぬくもりのある日差しの中で、裸のままの枝に蝋のような半透明の黄色い花がパァと咲いて辺り一面を明るくしている。マンサク、サンシュユと並んで春の訪れを告げる黄色い花の一つと云えるだろう。春の訪れを実感させる役者がここにもあった。



今年は何かと節目の年だ。21世紀になって15年、昭和になって90年、戦後70年、明治維新から148年(一口に云って150年)。何かが起きる予感がする。こんな年だから、名古屋の飲み会が熱田であるので夕暮れ前の熱田神宮にお参りしてきた。会社の元同僚の会合で、期せずして出席メンバーの内の4人が熱田さんで顔を合せた。


4人の内の誰かがつぶやいた。「金を神様に向かって投げるのは、考えてみれば随分失礼なことだなぁ」。物心がついてから70年この方、なんのためらいもなくやってきたこの習わし、考えてみればその通りだ。初詣の期間中で、賽銭箱に入れるのでなく白い布で覆われた囲いの中に賽銭を投げ入れるから、余計にそういう感じを抱くのも無理からぬ話だ。結局、答えは出ずじまいでその話は打ち切りとなってしまった。


帰宅後溜まったメールを見ていたら1月2日付けの日経電子版に「日本人はなぜ賽銭を投げる」という記事を見つけた。要約すると、各地の古くからの祭事では、お金が人の身代わりとして「ケガレ」を引き受ける風習が残っている。ケガレたものを投げ捨てることで、投げた本人は祓い清められる。きれいな心身で神の前に立つことが出来る。賽銭は御祓いのためであって、ご利益を得るものでない。ということらしい。


そういうことなら、お札で高額な賽銭を投げ入れてもあまり意味がないのだ。今まで投げ入れてきた賽銭は間違ってなかったのだ。合点。