縁(えにし)の糸


雨の週明け。定例の名古屋出張麻雀と飲み会。サンデー毎日族の必須科目、教養(今日、用)と教育(今日、行く)があってよさそうに見えるが、家に帰れば空しさだけが残る。


きのうの日曜、尾張旭の渋川福祉センターで、メイちゃんパパさん率いる尾張旭国際交流会主催の「東西文明の十字路・トルコ」と題する講演会があり参加した。名古屋トルコ日本協会の方の講演や映像を見ると、トルコを10日間もかけて旅行したと云っても、ほんの上面(うわつら)だけの旅行だったことを実感。



先週の木曜の日記「明治村」の結びは「世の中、いろいろな縁(えにし)で結ばれている。」とのカキコで終わっている。なぜ縁(えにし)などという言葉を選んだかと云うと、日記を書いている時何年か前の朝の連ドラ「だんだん」の主題歌「縁(えにし)の糸」の一節「この世で出会う人とはすべて見えぬ糸でつながっている」がふと頭に浮かんだからだ。竹内まりや作詩・作曲・歌だ。


愛知県の常滑で造られた煉瓦が東京の帝国ホテルで役目を果たし、取り壊され廃棄処分されるはずだったものが、縁あってまた愛知県の明治村で生き返っている。                               



現在進行中の朝の連ドラ「あさが来た」のヒロインあさが、晩年御殿場の別荘に若い女性を集めた合宿勉強会を開いていて参加者に去年の朝の連ドラ「花子とアン」のヒロイン村岡花子がいたこと。これらのことは、すべて見えない糸でつながっている。そんな運命みたいなことを感じたから「縁の糸」が頭に浮かんだだろう。


ところで、どんな歌詞か思い出せないのでネット検索。出だしはこれだった。

♪ 「袖振り合うも多少の縁」と  古(いにしえ)からの伝えどおり

  この世で出会う人とはすべて  見えぬ糸でつながっている



ネットで歌詞を読んでいて”おやっ”。 「袖擦り合うも・・・」でなかったか? このことわざをネットで調べると「袖触れ合う」というのもある。 「多少の縁」も「他生」もあり「多生」もある。歌詞にあるとおり、昔から今に至るまで伝えられる間に幾多の変遷をたどっているということだろう。


一番権威のある国語辞典、「広辞苑」で調べたら「袖振り合うも多少の縁」で出ていた。竹内まりや さん正解だ。ちなみに、「ちょっとした出来事もすべて前世からの因縁によるものである」との説明。それならば「多少の縁」は仏教用語である「他生の縁」が正解だと思うが。 ことわざや熟語が時代と共に解釈や読み方が変わってくることがあるように、おそらくこの「多少」もその部類だろう。


まぁ〜、理屈はどうでもいい。明治村はたったふたつの建物だけでもこれだけのネタを提供してくれる。67ある建物それぞれの運命の糸を解きほぐして行くのも興味深々だ。だが、「やむを縁(えん)」お役の関係で「縁(えにし)の糸」の探究の機会が奪われる。(生涯学習講座の明治村見学会がお役の都合で参加できず)これも、前世からの因縁か。