「戦争を語り継げる最後の世代」の自分史


やっと氷点下の朝から抜け出た。3日続いたか、4日続いたか。日差しが暖かい。


きのう天皇、皇后両陛下が太平洋戦争の激戦の地フィリピンへ慰霊の旅にでかけられた。自分のすぐ上の兄と同い年で今年85歳になられるはずだ。年を召されても陛下の胸中に宿った記憶を風化させまいと願う強固な意志がこの慰霊の旅に呼んだのだ。そんなことがひしひしと伝わってくる。


今回の両陛下の慰霊の旅に関する報道で、かの地での激戦で命を落とした日本軍将兵は51万人を超えること。フィリピン人の犠牲者が日本側を大きく上回り110万人もあったことなどを始めて知ったという日本人が結構あるのではないだろうか。かくいう自分もそうだ。


戦後70年を過ぎて、なお省みるべきことが少なくないのだ。いま、自分史を書くことにとりかかっている。第1章「誕生から小学校入学まで」の項の見出しは「多治見で誕生 戦争を語り継げる最後の世代」だ。以下はその一部の抜粋だ。



私は終戦の時4歳で、戦争を語り継ぐことが出来る最後の世代であろう。夜間空襲を避けるため、母に背負われ姉と三人で夜になると近郊の親せき宅へ泊りにいったことは鮮明に覚えている。多治見は何の軍事施設もないのに終戦も間近い昭和20年7月15日列車が艦載機の機銃掃射を受け、多数の死傷者が出た。              


家が駅のすぐ近くだから、この空襲は憶えている。艦載機が低空で飛んできてバリバリとやる。押入れの布団の中に潜り込まされた。8月15日が来るたびに、こんなバカな戦争は二度と起こしてはイカンということを語り継げる最後の世代として娘夫婦や孫に語りかけてもなかなか真剣に聞いてくれない。「日本って、アメリカと戦争したの?」と云わないだけでもまだマシだ。


両陛下の慰霊の旅で、自分史で取り上げたこの「戦争を語り継げる最後の世代」の重みというか、責任の重さというか、そんなものに改めて気づいた。