第二の故郷金沢


風は冷たいがどこかに春めいてきた感じがするこの週末だった。三好丘の田園地帯はすっかり春景色だった。梅が咲き菜の花が咲き、その先では春の風物詩「野焼き」の煙が立ち上っている。週明けのきょうは降ったり照ったりで荒れ模様だ。2.3日前、いつもの場所にオオイヌノフグリがまだ咲いていないとカキコしたが心配ご無用、きのうの朝のウォーキングで咲いているのを見つけた。




「自分史」今は第二の故郷金沢について執筆中だ。大学2年頃から就職は地元企業と決めていた。当時は最初に入社決定した企業に必ず就職するというルールがあって、6月に試験のあった地元のM社に決まってしまった。今から思えば、これで我が人生のレールが敷かれたようなものだ。このレール上に第二の故郷ができ、結婚し、子どもができ、終の棲家ができ、第二の人生を送っているのだ。



昭和39年(1964)年にM社に入社した。2年間の現場実習を終え、昭和41(1966)年、金沢のI社へ同期生3人が出向した。金沢に本社を置き、県下一円に営業所網をもった会社だ。労働争議に明け暮れした会社に昭和37(1962)年M社が乗り込んで収拾。再建に取り掛かるにあたっては若手が必要ということで声がかかったのだ。


金沢には10年と長居した。ここでは実習員時代の制服でなくスーツを着てバスで通勤して、初めてサラリーマンを実感した。金沢と名古屋の中間の米原で落ち合って彦根や大津・京都でデートを重ね、昭和43(1968)年には妻敏江と結婚した式場は中日ファンなので、ドラゴンズの球団事務所のある名古屋の中日ビル、中日パレスだった。

                                                  


3人の子どもも金沢生まれだ。ゴルフを覚え、熱中したのも金沢。酒飲みの体質でなかったのが酒飲みになったのも金沢。会社から業界団体に派遣されて値上げの原価計算作業に携わったことで経営のイロハを覚えたのも金沢。サラリーマンのイロハを覚えたのも金沢だ。あの暗い冬の天気さえなかったら住みよいいい街金沢だ。出向して8年目くらいに、金沢に永住してもいいと決心して住宅用の土地まで買った。


運命のいたずらというのか、10年目に名古屋から声がかかった。一緒に出向した他のふたりは名古屋の会社に入社しても定年まで名古屋の土を踏むことなく金沢と小松を終の棲家にしている。金沢にいた10年は人生の中でもエポックとなる事柄がもっとも集約されているだろう。第二の故郷と云っても過言でないほど心に残る土地だった。