法の裁きあれこれ


週末土曜は日没まで雲一つない快晴。船ヶ峪公園のハクモクレンが咲き始めた。その純白の花と地平線に沈む夕日のコントラストが素晴らしかった。週明けのきょうは一転朝から冷たい雨の一日。



先週の高浜原発の運転差し止めを命じた裁判官の判断は市民感覚に迎合した判断か、それとも感情に偏した判か 。”法しろうと”の熊さん八っあんには判断がつきかねる。専門家が厳しい安全基準を設けているのに司法がなぜそこまで口出しするのか?.専門家のメンツ丸つぶれでないか。.


先日の 認知症の高齢者が列車にはねられ、鉄道会社に損害を与えた場合に家族が賠償責任を負うべきかが争われた訴訟の上告審判決で最高裁は同居の夫婦だからといって直ちに監督義務者になるわけではなくケースバイケースだという判断を示した。法律一辺倒でなく社会状況に即応した判断だと思う。民事に裁判員制度はないが、最高裁は見えざる裁判員を意識したのだろう。..
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裁判官が市民感覚を意識して判断を下すようになったのも時代のながれだろうか?数年前に起きた一宮での「父親による障害児殺人事件」の裁判員裁判。弁護士をしている友人が弁護を引き受けて、憤懣やるかたない心情を多治見の仲間のブログにカキコしていた。30歳を越し180cmもある大男の障害児は赤ちゃん言葉しか話せない。父親に毎日のように殴る蹴るの暴行をする。事件の起きた日には包丁を持って揉み合っている間に体中を突き刺してしまった。



検察の主張するように8年間服役させ悔い改めさせる必要があるのか、それともこのまま社会生活をを続けさせ子の冥福を祈らせてもいいのではないか。(2千数百名の嘆願書が出ている)これが裁判の根元にかかわる問題点。「この父親の気持ちが・・・苦労をしたことのない裁判官にわからない。それを フオローするはずの 裁判員が解しない。これでは・・・なんのための裁判員裁判ぞ」 と彼は嘆いていた。


出てきた事案にただ法律という物差しを当てて結論を出すだけの裁判官、市民感覚でフォローするはずの裁判員がそれをなかなか分かってくれないもどかしさを彼は訴えていたのだ。裁判官は「法律と市民感覚」のさじ加減で裁きをする。裁判官も人の子だ。そのさじ加減は十人十色だろう。万人が納得する裁きなどできっこない。やっぱり、神が裁くべきか?.