さまざまなこと思い出す桜かな


昨夜からの雨も昼頃には上がり、穏やかな春の日差しも差し込んで来た。春分から数えておよそ2週間。きょうは二十四節気の「清明」だ。朝のラジオで云っていた。春先の清らかで生き生きとした様子を表した「清浄明潔」という語を略したものだと。



きのうからの雨で万物が若返り、清々しく明るく美しくまさに「清明」がぴったりの日だ。日本全国桜の花が咲きほこり、花見のシーズンだ。週末の土日、「やむを縁」関係で少々無理をしたせいか、腰の状態が思わしくない。結局、今年の花見は寂しくウチからの花見だけに終わりそうだ。上の写真は雨に洗われた柳の芽吹き、満開の桜、野に広がる菜の花畑が美しい。



どこにも花見に出かけて行けなければ、家で出来る花見を思い立ち、4月1日の日記には海上の森五条川をアップした。きょうは、東谷山だ。どこそこの花見は誰と行ったかとか、あの花見では酒を飲みすぎたとか、孫を連れて行って手を焼いたとか、桜の美しさもさることながらさまざまなことが思い出される。


      さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉



芭蕉のこの句も字面だけ追って行けば、なんだこれだけのことかとなるだろう。高尚な人は、武士は決して死をおそれず、どう立派な死に方をしようかと考えている。死ぬべきときがくると桜の花のようにいさぎよく散っていったのだ。日本人の心は桜のようだというだろう。


そうかと思えば、熊さん八っあん的発想だと、「五体不満足」の乙武君なんぞ、あれであんなに元気はつらつだというのに、体の蝶番(ちょうつがい)ひとつ調子が悪くて花見にも出かけられない。なんと情けないことだ。やっぱり、桜はさまざまなことを思い出させてくれる。