輝いていたころの写真


真っ青な空が戻った。そして、文句なしの夏日だ。この地区の最高気温が28度とか。沖縄と一緒だ。どうやら、これでストーブを物置に片づけるふんぎりがついた。


「自分史」を進めようと、ごそごそと家探しをしていたら本棚の本の間から3枚の古い写真が出てきた。アルバムから抜け落ちたものが、こんなところに落ち着いていたのだ。2枚は小学校6年のとき、1枚は大学2年のときのものだった。当時の思い出を綴ってみた。



「笠鉄のマッチ箱は 細くて長くてガタガタで 吐き出す煙は真っ黒けのけ」。中央線を走る蒸気機関車よりマイナーで古臭い感じの蒸気機関車が引っ張る笠原鉄道の列車のことを、こんな風に口ずさんで小馬鹿にしていた。小学校低学年の頃だ。


この笠原鉄道は中央線多治見駅に隣接する新多治見駅土岐郡笠原町(現多治見市)を結ぶ約5kmの鉄道。沿線の陶磁器原料や製品を運ぶことを目的として昭和3年に開業している。昭和27年には蒸気機関車からディーゼル機関車に替わり、同時に貨物と旅客輸送が分離された。昭和46年に旅客輸送が廃止となり、昭和53年には貨物輸送も廃止され50年の歴史を閉じた。写真は新多治見駅でのガソリンカー。(昭和29年撮影)





戦時中、空襲に遭うといけないからと、お袋の背中におんぶされ、姉とともに夜になるとこの鉄道に乗って笠原町の親せきの家に泊まりに行った記憶がある。どれくらいの頻度で行ったのかは覚えていない。70年も前のことだ。


モノクロ2枚の写真は小学校5年生の時お年玉をためて買った「スタートカメラ」というおもちゃに毛の生えたようなカメラで撮ったものだ。写真屋で現像・焼付をしてもらって仕上がりの大きさは免許証の写真と同じくらいの大きさだ。それでも、自分で買ったカメラで自分が写したものが仕上がるとそんな小さなサイズのものでも嬉しかった。(掲載した写真は、その小さなサイズのものをスキャンして拡大したもの)


昭和29年当時の多治見駅前通り。通りかかりの乗り物はバスではないかと思う。



昭和37年大学2年の時の写真。今では、トヨタ博物館へでも行かないとお目にかかれないトヨペットクラウン。観音開きのドアだ。友人のアルバイト先からいつも車を下宿に持ち帰りしていた。この時は、今でいう「合コン」に借用。箱根に行った記憶だ。カメラは「スタートカメラ」を卒業してキャノネット。大学4年間に質屋に何回も出入りしたカメラだ。


写真を撮った昭和29年、同37年の社会の動きはどうだったのか。調べてみた。
●昭和29年(1954)
 自衛隊発足、第五福竜丸死の灰浴びる、名古屋テレビ搭完成、中日初の日本一

●昭和37年(1962)
 堀江謙一 小型ヨットで太平洋単独横断、テレビ受信契約1000万突破(普及率48%)


写真はモノクロで輝きがなくても、あのころの自分は身も心も輝いていた。