ボンネットバス


朝から厚い雲が主役。時折小雨がパラつき、はっきりしないまま一日が過ぎた。こんな日だから、ウッドデッキの下は薄暗い。そんな中で暗闇に猫の目が光るようにドクダミの白い花が床下一面に光って見える。地下茎でものすごい勢いで繁殖し、葉に独特の臭気がある。名前からして、あんまり、いいイメージがない。しかしちょっと、付き合ってみると、なかなかなものだ。


まず、名前だ。ドクダミ、毒をためる(収める)、即ち毒を止める効能がある。ウチでは花を焼酎に漬けておいて、虫刺されに使う。金時虫に触った時には効果てきめん。葉、地下茎は漢方薬。どくだみ茶は有名。花もよく見れば、まぁまぁだ。白い花弁にみえる部分は蕾を包んでいた葉で「総苞」という。棒状の花序に小花が密生する。(緑化センターの先生に習った)


名前で損をしているだけで、実は才色兼備のすぐれものなんだ。ドクダミは。




「♪ 田舎のバスはおんぼろ車  タイヤはつぎだらけ窓は閉まらない」 中村メイ子が歌う「田舎のバス」の出だしの一節だ。昔よく歌った。ネットで調べたら1955年の歌らしい。中学2年の時だ。子どもの頃から乗り物には興味があったので、写真を撮ることもよくあった。先日の乗鞍の登山バス、ロマンスカーもその中の1枚だ。


きょうのバスはボンネット型から箱型ボディーリヤエンジン型への移行期、昭和20年代後半から同30年代(1950年代半ば)のバスの写真だ。多治見駅前の広場を挟んだ北側に東濃鉄道の本社とバス車庫・乗り場があった。小学校低学年の頃までは木炭車が煙を出している風景が見られた記憶がある。この写真は中学1年の時スタートカメラで本社2階から駅前広場に駐車するバスを撮ったものだ。



ボンネットから箱型ボディーリヤエンジンへの移行期で両型が並んでいる。箱型ボディーのリヤエンジンバスが導入された時は珍しいので、駅前まで見物に行った記憶がある。昭和40年代(1970年代)の初め頃まではボンネットが走っていた。ボンネットバス終戦から高度成長時代に入るまでの戦後復興期の人の輸送を担っていたのだ。                                         


高度成長時代に入り、合理化、近代化のもとにボンネットバスの活躍の場が特殊な路線だけに限られてしまったが、彼らの功績は決して消えることはない。ボディーがボンネットからリヤエンジンに変わるのとほとんど同じ時期に方向指示器もアポロ型(腕木式)からウィンカーに変わった記憶だ。それだけに、余計リヤエンジンのバスはカッコよく見えた。


名古屋栄の三越の前身はオリエンタル中村百貨店だった。中学生の頃、近所の友達と正月に大須スケート場に行き、スケートの後で松坂屋かオリエンタル中村に行ってお年玉で買い物をするのが恒例だった。この写真はその時、オリエンタル中村の屋上から撮ったものだった。


子どもの頃からこうして写真を撮るほどの乗り物ファンの自分が、図らずも入社した会社のバスの車掌を実習で半年もする機会を得たことは、しかも当時の営業所に1台だけボンネットバスがあり、そのバスでの車掌も経験したことは、今になって思えば、何かの縁(えにし)だったろう。