野麦街道 野麦峠


梅雨前線が南下したせいか日中は晴れ間が広がり暑くなった。この時期、朝は4時を過ぎれば明るくなり、夕方は7時過ぎまで明るい。それもそのはず、来週の火曜21日はもう夏至だ。



先週ご近所さんたちと木曽に旅行した。これといった目的はなく1人3千円の宿泊助成券を使うために行ったものだった。ただ、帰ってきて麻雀しながらの雑談の端々に3人ともが、実は助成券もさることながら時には「非日常の世界」に浸ってみたいということが本来の目的であった気がする。


「非日常の世界」といっても大雑把な括りだが、雄大な自然とか歴史上の街並に接するとかが含まれるだろう。先日もメイちゃんパパさんがコメントを寄せてくれたし、CBCテレビの夕方のニュースでやっていた。馬籠から妻籠峠越えの8kmの中山道旧街道ウォーキングをする人(平成12年で3.5万人。現在はその倍以上はあるのでは)の4割が外国人らしい。それも欧米人が多い。



木曽路は「非日常の世界」を満喫するに十分な条件を備えているといえよう。我々は、今回馬籠・妻籠はパス。前日に野麦峠に行った。自分は2度目になるが他の2人は映画化やテレビドラマ化されたノンフィクション小説「ああ野麦峠」の舞台でもある上、雄大な乗鞍連峰も眺められることからのリクエストだった。ジャンプロさんは帰ってから図書館でこの本を借りて読んだ。それなのに日記にカキコがないとクレーム。てなことで、きょうのカキコとなった。


野麦峠は長野県松本市岐阜県高山市の県境になる。標高1672m。古来から野麦街道があり、能登で取れたブリを飛騨を経由して信州へと運ぶ道筋であった。明治の初めから大正にかけて、当時生糸工業で発展していた諏訪地方へ、飛騨の貧農の娘たちが女工として働くためにこの峠を越えた。この史実は1968年に発表された山本茂実(やまもと・しげみ)のノンフィクション『あゝ野麦峠』で全国的に有名になった。



あゝ野麦峠」によると、飛騨の女工たちはまず、古川、高山の町に集まり、工場毎の集団になって、美女峠を越え、難所野麦峠を越えて信州に入り、塩尻峠を越えて諏訪地方に、3泊4日の行程だった。この旅は、昭和9年(1934)に国鉄高山線が開通するまで続いた。


この野麦峠は北に乗鞍岳、南に御嶽山が望まれ景観が素晴らしい。生憎の梅雨空で残雪の乗鞍連峰も麓しか見えなかった。峠には「野麦峠の館」があって、古来からの峠の変遷を伝える国内唯一の峠の資料館がある。厳しい難所の避難所ともいえる「お助け小屋」も移築されている。女工達がたどった当時の道、野麦街道が麓の野麦集落まで整備されている。



飛騨地方と信州諏訪を結ぶ野麦街道、野麦峠。長野・岐阜両県の県道で結ばれている。旧街道も整備してあるとはいえ、いかにもひなびた感じの街道だ。信州諏訪と信州佐久方面を結ぶメルヘン街道麦草峠は、標高2000mの森林地帯をヘヤピンカーブの連続。秋に訪れたことがあるが素晴らしい景色だった。


「野麦」と「麦草」。ひなびた感じの野麦。メルヘンチックな感じの麦草。好対照の峠だ。どちらも十分「非日常」の世界にどっぷり浸かれる。