豊田市 民芸の森


不安定だった天気もようやく落ち着いて来たようだ。不安定なのはドラゴンズの戦力だ。今シーズンのドラゴンズは秋風が吹き出す前にもう秋風だ。


所用で豊田の猿投方面へ行ったので平戸橋の「豊田市民芸の森」に立ち寄った。矢作川を望む平戸橋に広がる閑静な森に佇む「民芸の森」。この地を愛しここに住み、民芸を愛した本多静雄氏のお屋敷跡が「民芸の森」として、この春に一般公開されたのだ。



    ● 豊田市名木指定 クヌギ
ひと山まるごとお屋敷だった後には、樹高10mを超すようなクヌギ林、狂言舞台、陶磁の狛犬などユニークな建造物が点在している。夏木立が暑い夏の日ざしをさえぎってくれる中、鳥のさえずりを楽しみながら散策した。


本多静雄氏は逓信省の技術官僚を退官後郷里豊田市に戻り、昭和21年ここに居を構えた。実業家として活躍する傍ら古陶磁を研究。茶室や田舎家もここへ移築している。昭和52年豊田市名誉市民。平成11年102歳で永眠。



    ● 陶磁の狛犬
正面入り口を入って左に曲がると2体の狛犬がいる。戌年生まれの本多氏は陶磁の狛犬の研究者、収集家としても知られている。


氏は昭和18年体調を崩し一時郷里に戻っていたときに、疎開していた加藤唐九郎と出会ったことにより陶器に興味を持ち、自らも陶芸作品づくりを始めた。後に、収集・研究が中心となり、みよし市黒笹で平安時代の古窯跡を発見し、日本初の施釉陶器を生産した窯であることをあきらかにするなど研究者としての顔を持っている。




   ● 茶室「松近亭」(しょうきんてい)
狛犬を通り抜けると苔むした茅葺屋根の茶室がある。本多氏が移築改装し、照明・扇風機・電話も置いて、「電気茶室」と呼んでいた。市内寺部町の尾張藩家老渡部家・家老の大沢家にあった煎茶席を昭和24年に移築。


本多氏は昭和19年、電力の鬼といわれた松永安左エ門と出会い茶道をはじめた。戦後、自邸に茶室「松近亭」をつくり、茶道に励んだ。




  ● 田舎家「青すい居」
昭和29年矢作川東側の市内寺下町にあった江戸時代中期の母屋を移築して、東北地方に見られる曲り家に改築したもの。


本多氏は戦前には逓信省技術官僚として活躍、退官後は、日本電話施設(現NDS)を創立。エフエム愛知の初代社長、会長を務めるなど技術者、実業家としての顔を持っていた。



  ● 狂言舞台
本多氏は狂言が好きで、毎年春に開いている「陶器と桜を観る会」では、この舞台を使って狂言を上演していた。


氏は陶芸家加藤唐九郎や画家杉本健吉とも親交があり、「陶器と桜を観る会」では多くの政財界人や文化人を招いていた。自作の狂言を創作したり、明治村茶会の茶席を担当するなど文化人としての顔を持っていた。




  ● 旧海老名三平宅(市指定文化財
挙母藩・尾張藩校の剣術師範を務めた4代目海老名三平が明治の廃藩後に住んだといわれる由緒ある建物。もともと、市内花本町にあったものを平成8年に移築。この地域の江戸時代後期の小農家の様子を示す建物。


本多氏は昭和20年民芸運動創始者柳宋悦との出会いをきっかけに民芸運動に参加し、豊田市民芸館の設立に貢献した。多くの民芸品を蒐集し、豊田市民芸館に寄贈している。氏は民芸運動の支援者としての顔を持っている。


ひとがうらやむような粋な人生を送った中で大橋巨泉が軟派の代表なら、本多氏は硬派の代表といっても過言ではなかろう。