人生が二度あれば


朝方は小雨のパラつくときもあったが、昼頃からは時折日射しも出てきた。とはいえ、相変わらず雲が主役の天気だ。きのうも同じような天気で十五夜は見られないと決めてかかっていたら、夕方のニュースでお月様が出ていた。早速、カメラにおさめた。月だけ撮るのは余りにも能がない。太古の昔の月も2016年9月15日の月も変わりがないからだ。


きのうの日記のオープニングフォトのパンパスグラス越しに昇る十五夜を撮った。とういうより合成をした。まことに、幼稚なお遊び。最近、おとなの「ぬりえ」が流行っているそうだ。それと似たようなものだ。はずかしがるこたぁない。



井上陽水の「人生が二度あれば」という曲がある。1番が父を歌い、2番が母だ。歌詞はこうだ。

人生が二度あれば/ この人生が二度あれば

母は今年9月で64/ 子供だけのために年とった/ 母の細い手

つけもの石を持ち上げている/ そんな母の手を見てると人生が

だれのためにあるのかわからない /子供を育て

家族のために/ 年老いた母




明治35年生まれの母、生きていたら今年114歳だ。生まれてすぐ、養女に出された。自慢は戦前の五輪金メダリスト「前畑がんばれ」の前畑秀子が椙山女学校の後輩だということだった。昭和3年に父とともに本屋をはじめた。昭和23年長兄が大学生、自分が小1の時父が亡くなり、以後女手ひとつで商売の切り盛りをしながら4人の子どもを育てたのだ。



今般先祖の墓の墓仕舞いをするにあたって、地元在住の自分が主導で、次兄と2年前に亡くなった長兄の長男の3人で話し合った。養女に出され苦労し、伴侶を早く亡くして子育てに苦労した母、そんな母に出来れば人生をリセットさせてあげたいくらいの思いの、次兄や自分。


自分たちとは母に対する思いの温度差があることは頭でわかってはいるが、自分や次兄の嫁、長兄の長男とのその差は計り知れないほどのものがあることを思い知らされた。それだけ、おふくろが偉大だったのだろう。