鵜呑みにできない報道


"季節の移ろい”っていう奴はなんて暦に律儀なんだろう。ほんとに春が来たと思わせるような陽気になった立春の土曜日、近くの舟峪(ふながや)公園の梅林では紅梅が咲き出した。農道の畦道ではオオイヌノフグリが咲き出した。そんな日から一夜明けたら、灰色の空から冷たい雨の日曜。ゆるんだかと思うと、戻ってくる。まだまだ「春は名のみ」だと思い知らされた週末だった。



地域の集まりだとか労働組合の集まりで物事を決めようとする場合、反対する者の声は大きいし、とかく過激な内容になる。賛成する者は余り意見を云わない。その場の雰囲気は反対が大勢を占めたような雰囲気になりがちだ。いざ、投票してみると賛成の方が多かった。よくあることだ。


先週あった出来事で、そんなことと同様な構図で、その報道の仕方について改めて「どうしたもんじゃろなぁ」と考えさせられた。トランプ大統領の「テロ懸念」7ヶ国からの入国制限に関する大統領令だ。我々が目にする耳にする報道は全米、いや世界中が一致して非難しているような構図だ。



だが、肝心の米国民の世論調査では反対より支持の方が多いのだ。沖縄の基地問題の報道でも同じような構図でないだろうか。肯定派は静かだからあまり報道されない。反対派は”声”が大きいからニュースになる。一般人にしてみれば、報道されることが実態だと思い込んでしまう。


言論の自由があるから報道する側にいちゃもんをつけるわけには行かない。賢い消費者がモノを買う時に他店と比べたり、食料品だったら原産地や賞味期限を調べた上で買うように、ニュースも送り手の素性を知った上でニュースに接しないと見方を誤ることになる。熊さん八っぁんが日常そんな高度の判断をする必要もないことだが、それだけ世の中が複雑怪奇になったということだけでも頭の隅にでも置いておく必要はあるだろう。