春の雨


きのうからの雨がお昼過ぎまで断続的に降り続き夕方には回復した。春の雨だった。3月にもなると雨もかつての冷たさがない。まだ温かい雨とまでは言えないが、春雨にはちょっと濡れてもいいかなと思わせる心地よい柔らかさがある。きのうの朝、傘も持たずに出かけ、夜バス停からは雨に濡れて帰宅しても、それが苦にならない。それが、春雨の春雨たる所以だろう。


春雨は生命にあふれている。春雨の一番の特徴は生命感ではないだろうか。春雨に潤された木々や草の緑はいのちにあふれている。春は、冬よりも雨の降る日が多く、1回に降る雨の量も多いといわれている。草木に若芽の出るころに降る細かい雨だ。これぞ春雨なのだ。正岡子規の歌がそれをうまく表現している。


くれないの二尺のびたるバラの芽の針やはらかに春雨のふる  正岡子規


二尺ばかり伸びたバラの木のまだいかにも柔らかそうな紅色の針(トゲのこと)のうえに、春雨がしっとりと静かに降り続いている。こんな情景をうたったものだ。



かつて多治見の仲間のブログで色々論争した。バラの芽がどうして二尺(60数cm)もあるのか。とか「くれない」なのは、花か木か芽なのか、「の」が多すぎじゃないかとか・・・。紅のバラの芽は右の写真だ。


バラの木のトゲと紅の若芽と雨の降る様子をワンショットにおさめたいが、クマさんのセンスでは悔しいけど、それができない。残念だ。



きのう3月1日の誕生日の花はハハコグサラジオ深夜便。3月に入ったという「ご祝儀」で春の七草のひとつをもってきたのではないかと思う。この花は春の七草のひとつ「御形(ごぎょう、または、おぎょう)」なのだ。この地では4月に入ってからでないとお目にかかれない。


柔らかいうす緑色の葉の先に、黄色の花がつぶつぶになってかたまって咲く。名前は「母」と「子」の人形(ひとがた)に由来するといわれている。