石原会見に思う


穏やかに晴れた一日。午後スタートのウォーキングはコートなしでの出で立ちだ。沿道の見事なしだれ梅だ。来週は2.3日留守をするので、この土日は日記をカキコとした。きのう3月3日の誕生日の花はモモとラジオ深夜便。桃の節句に因んで選ばれたと思うが、この地では4月に入らないとモモの花は咲かない。下の写真は一昨年撮ったものから選んだ。



石原慎太郎氏が「太陽の季節」で芥川賞を受賞したときの直木賞受賞者は新田次郎氏だった。昭和34年クマさん高校生だった。両氏はいわば同期生だ。その新田氏が明治時代の末期に起きた陸軍の八甲田雪中行軍遭難事件を題材にした「八甲田山死の彷徨」を著し、映画にもなり反響を呼んだ。きのうの石原氏の会見を見て因縁めいたものを感じた。


この著書は組織を動かす上で数々の教訓が織り込まれていて、ビジネスリーダー養成の教科書的存在でもあった。何十年も前のことで内容は不確かだが、雪中行軍隊の随行員の中に行軍隊長の大尉より階級が上位の少佐がいて、過酷な気象条件の中で、指揮命令系統が乱れ、意思決定の不統一をまねいて200名もの死者を出す事件になった。



石原氏「果し合いに向かう侍の気持ち」で会見に臨んだが、刀の切れ味は鈍かった。「裁可した責任はある」と反省する一方「行政や議会、みんなで決めた」「ちまちましたことは、みんな任せた」。氏が百条委員会に出席されても、真相解明はできないことがわかった。


史上まれにみる過酷な気象条件の中での幹部の意思決定の不統一から死の行軍遭難事件が起きたように、小池旋風というまれにみる気象条件で「意思決定の不統一」「無責任体制」の上に築かれた石原都政時代の楼閣が崩れそうになりつつある。こんなところに、石原氏と新田氏の因縁めいたものを感じた。