監視社会に思う


青空。からっと晴れ上がった。五月晴れ(ごがつばれ)だ。グラウンドゴルフで心地よい汗をかく。きょう5月18日の誕生日の花はアヤメとラジオ深夜便。ラジオで「いずれアヤメかカキツバタ」の故事を引き合いに「どちらも優れていて甲乙つけがたいこと」の例えと説明していた。


きのうのウォーキングの際、こんなことが話題になった。近所の生活道路に面したお宅で、車が車庫から数十cm道路にはみ出して駐車してあったら、「駐車違反」の張り紙。そして反則金となったそうだ。誰かが、通報してパトカーが来て張り紙して行ったそうだ。



豊田に住んでいたとき、我が家の子ども同然に育てられた隣家のお嬢さん。大学を卒業後米国に渡り米国人と結婚。市民権もとって米国人になっている。先年、里帰りしたとき我が家に訪ねてきて話していたことを思い出した。


米国では子どもを一人だけにすることは法律で禁じられているそうだ。そして、通報制度があって子どもを一人だけにしていると通報され罰せられるそうだ。彼女、ガソリンスタンドがプリペイド式のセルフなので子どもを車に乗せたままスタンドの事務所にプリペイドカードを買いに行っていたら通報されたと嘆いていた。地域社会が住民を見張りあう相互監視体制、どこかの独裁国家を彷彿させる。



そうはいっても、わが国でもいたるところに監視カメラがあって自分の知らないうちに記録をとられている。駅で、コンビニで、銀行のATMで。監視カメラは犯罪者だけを監視しているわけではない。何の許可もなく善人、悪人の区別もなく老若男女の一挙手一投足までこっそり監視され記録されている。


たった一人の悪人のために何百万、何千万の人間の人権を無視するようなことをしなければならないかと思う反面、相互監視体制や監視カメラは犯罪抑止のための必要悪と割り切らなければならないのかとも思える。難しい問題だ。少なくとも、国家統制で住民相互監視制度をするようなことだけはやめさせなければなるまい。「地域社会」の知恵の出し方次第で防げるのではないだろうか。