「塩の道」余話焼き物ロード


きのうに引き続き朝から断続的な雨降り。お昼過ぎには日差しも出てきた。これが「走り梅雨」ではないだろうか。時は5月下旬から6月の初旬。あすからは、天気が回復ししばらく続く。そして本格的な梅雨に入る。五月晴れが続いて梅雨入りまでの方程式通りだ。


きょう5月26日の誕生日の花はキンギョソウ。庭に咲いていたが、先日までの日照り続きとこの雨ですっかり憐れな姿になってしまった。赤や黄は全滅。白だけがかろうじて残った。日本では花が金魚のおちょぼ口に似ているところからのネーミング。英語では「スナップ(かみつく)ドラゴン(竜)」と呼ぶ。ミツバチが花の中に入って蜜を吸う様子を、ミツバチが 竜に飲み込まれているような姿になぞらえて表現した。とパーソナリティーは解説。



おとといの「塩の道」のレクチャーで、足助の街並の北端今朝平に奈良・平安時代東山道へ抜ける街道が今でも残っている。これがシルクロードになぞらえて言えば「焼き物ロード」でないかと独断と偏見による持論を披露した。その発端は我が家と目と鼻の先であった古窯発掘見学会に参加したことだった。


10年前の2007年2月と5月の2回あった。場所は家から南へ1km弱の、あざぶが丘団地だ。大がかりに掘り起こした古窯を埋め立てしたのが今ある100数十戸の住宅団地だ。以下はその時のクマさんの日記からの抜粋だ。



午後、莇生・辰己山の古窯発掘調査の現地見学会があった。ウチから歩いて10分もかからない距離だ。宅地造成中で調査後は住宅が建つとのこと。このあたり一帯には奈良時代から鎌倉時代にかけての古窯が13基ある。きょうは、その中の2基が開放された。写真右は平安時代の末期の古窯。左下は鎌倉時代の古窯。いずれも当時のままの状態だ。


瀬戸や常滑に先んじて焼き物の生産をしていた三好には160基の窯跡が発見されているそうだ。
工人たちがどんな所に住んでどんな生活をしていたかなどと思いを巡らせるのもロマンを感じさせられる。



発掘に携わっていた人たちが調査が終わったら、すぐ宅地造成に入ると説明していた。日本の人口も減少に転じてきた。道路を、工場用地を、宅地をと右肩上がりの成長もここらで一服する時期ではないか?緑の自然も、文化財も破壊されて行く。 寂しい限りだ。このあたりの古窯からの出土品も展示されていた。(以下の写真)
(以上 クマさんの日記 2007年2月10日からの抜粋)



● 2回目の発掘調査見学会 (2007年5月13日)
今回は、鎌倉時代の窯跡の左側に3基ある奈良時代の窯跡が調査の途中であるが公開された。杯、椀、かめ などが窯の下方に広がる灰層(灰を捨てたり失敗したモノを捨てたりする場所)から出土された。(上から2枚目の写真:青いシートのある場所)


今回の調査では、槍の穂先につける石器が発見された。約12000年前の縄文時代のものだそうだ。そんな時代から三好にも人々が活動していたことがわかったことは画期的な発見だ。


奈良時代から鎌倉時代にかけて窯で焼き物に携わっていた人たちがどこに住んでどんな生活をしていたか思いをめぐらすだけでも大いに好奇心を沸き立たせることだが、それが12000年も前の縄文時代に今自分の住んでいるほんの近くの場所で狩猟をしながら人々が生活をしていたことがわかったとなるとますます”男のロマン”を掻き立てるではないか!(以上 クマさんの日記2007年5月13日より抜粋)



こうして奈良時代から平安時代にかけて猿投古窯群で生産された陶器は須恵器(すえき)と呼ばれ、高級食器として流通した。平安末期になると製品が粗悪化して衰退していったようだ。原料となる粘土に問題があったのではないだろうか。工人たちは街道沿いに良質な土を求めて瀬戸から東濃地方に入ったのではないだろうか。


鎌倉時代に新しい技法で加藤景正が瀬戸焼をはじめた。室町時代の末頃までは古瀬戸と呼ばれた。室町時代になると日用雑器が多くなり、次第に美濃に生産拠点が移った。桃山時代には茶の湯の隆盛によって美濃の志野、織部がもてはやされた。



何の根拠もないあてずっぽうの推理に過ぎない。今、みよしの歴史民俗資料館で企画展「みよし最後の焼き物」が開催中。これを見に行こうと思っている。もうすこし、ましなことが推理できるとおもう。それには、早くぎっくり腰を治さねばなるまい。