米銃規制に思う


寒くなった。朝のウォーキングもメンバーがみな揃って一枚余分に羽織ってお出掛けだ。本格的な秋の始まりを感じる。寒さを感じる分、空気が澄んで月が美しく輝いて見える。きょうは十五夜だが、美しく輝いて見える保証はない。一日早いが、条件の良い昨夜前撮りをした。秋の清々しさと趣を感じる昨夜の空。



米ラスベガスで600人近い死傷者を出した銃乱射事件が連日報じられている。きのうも、ニュースを見ながらカミさんがつぶやいていた。何年か前、名古屋の高校生がホームスティ先で銃撃を受けて亡くなった。そのお母さんがその後米国での銃規制に関する活動をしていたが、相変わらず続く銃乱射事件で何とかならんものだろうかねぇ。と。



そこで、クマさんいわく。中国人や韓国人もそうかもしれないが、特に米国人は交通事故を起こしても絶対自分が悪いとは云わない。つまり「自分の中には悪はない。善ばかり」このようなピュア―な思想に根差したものだ。この思想の背景にあるものは何か?


先進主要国を見渡しても、米国は歴史的に敗北の歴史がない。封建社会社会主義社会などの体制の変革の歴史がない。いきなり利潤追求の資本主義社会、全員参加の民主主義社会にになっている。教育的には、共産主義への恐怖、国家への忠誠が徹底している。             



こうした背景の延長線上に国家に自分の健康まで干渉されることはない。自分のことは自分で守る。だから医療保険改革や銃規制に反対の考えが根強い。武器を持つことの権利が憲法で保障されている。今度のような事件が起きると銃規制を求める声が強まる一方で銃撃を防ぐためにもっと銃が必要だという声すら出てくる。米株式市場では、事件後、銃関連株が値上がりした。


こういうことを考えると、米国人に銃規制を課することは、わが民族が八百万の神(やおよろずのかみ)を信じて日常が動いていることに対して規制を課することと同じようなことではないだろうか。一朝一夕で何とかなるものではない。ただ、銃規制は人命がかかっている。何とかしなければなるまい。


コンサートで演奏していたひとりが「私は間違っていた」とSNSに書いた。これまでの考えを改め、銃規制が必要だと訴えた。そのことをテレビのニュースでやっていた。今までにはなかった情報の飛び道具SNSを得た銃規制を訴える渦が、今度こそ広がって行くことに期待したい。