「老々輸送」中の「老々介護」の話


きょうも穏やかな晴天。季節外れの暑さが続く。先日は朝のウォーキングにジャンパーを羽織って出かけたかと思うと、きょうは汗ばむ陽気で真夏日に。おとといの市体育祭の日も同じような陽気だった。陸上競技場の木陰で涼をとりながら雲の流れに目をこらす。秋は空が澄んで雲の位置が高い。広報紙の取材疲れが癒されるほんのわずかなひとときだ。


きょう10月10日は東京五輪から53年目の日になる。戦後復興の証しを世界に示すこの五輪の開催を記念して設けられた体育の日が10月10日だったころは、この日が来るたびに当時の出来事を色々と思い起こしていた。体育の日が10月第2月曜になってからは、メディアもあまり取り上げなくなったようだ。


1964年(昭和39年)は、社会人になった年で東京を離れていた。五輪の開会式は会社の食堂のテレビでチラッと見た程度だった。1年留年した友人は、「五輪を見るために留年したのだ」と自慢げに語っていた。この五輪を境に東京は一変した。卒業して1.2年後に上京すると、まるで”おのぼりさん”。今から考えると、在学中の4年間の東京は「三丁目の夕日」とか「ひよっこ」の世界だったなぁ。


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午後、市役所の研修室で「健康寿命を延ばす食生活」と題するセミナーがあり、ご近所さん3人の御婦人の「老々輸送」をした。当然、自分も受講した。車中で介護についての会話。ひとりのご婦人が自分の体験をとつとつと話してくれた。「老々輸送」中の「老々介護」の話だ。
                       

介護は特別なことじゃない。親と子と立場が入れ替わっただけ。おむつを替え、ご飯を作ってくれ、私を育ててくれたそのお返しをしているだけと気づいた。それと、おむつ交換は大変な作業だけれど、おむつが取れるのは見送る時。生きている証がそこにあると思うと、暗闇の先に光が見えてきた。と。どこかの講演会で話してもらいたいくらいの話だった。