法解釈と市民感覚の溝


梅雨入りも秒読み段階に来て、午後には雲が出て来て蒸し暑くなった。

最近世間を賑わせている日大タックル事件と森友文書改ざん問題。法律的解釈と市民感覚との間にこんなにも差があるものかと改めて考えさせられた。日大タックル事件はいつの間にか日大そのものの体質の問題にすり替わってしまったが、端緒となったのはタックル事件だ。


その事件。報道によれば、監督・コーチが悪役でタックルさせられた選手は指導者側に先立って開いた記者会見では、まさに悲劇のヒーロー的存在だった。先日の高校の同窓会に埼玉県から元裁判官をしていたI君が出席していた。彼が、多治見の仲間のブログに日大タックル事件についての所感を投稿していた。以下はそのコピペだ。



通常は、「怪我をさせてこい」といえば犯罪となるが、アメリカンフットボールの場合は、格闘技であり、試合の中で暴力的攻撃が行なわれることを予定したスポーツであるから、単に潰せとか怪我をしたら得だろうぐらいの発言があったとしても犯罪とはならない。

監督コーチが 1.反則を犯してまで 2.怪我をさせてこい と明白に言った場合に始めて『犯罪』となる。しかし、証拠を見る限り、監督コーチの言葉からは1.の言葉はなく、選手自身も「反則をするようにけしかけられた」とはひとこともいってない。



また、微妙な暗黙の言葉があったともいってない。選手が絶対服従の関係を迫られたとしても、1.の言動がなければ同様無罪である。そうすると、今回の監督コーチの言動は刑事的に【傷害罪】を構成する実行行為をしたとはいえない。


かえって、選手一人のフライングで1.2.をしたことになり、選手のみが一人有罪となる可能性が高い事件である。にもかかわらず、関東学連は監督コーチを悪徳タックルの指示があったとし除名し、追放処分とした。


しかし、捜査が進展し、傷害罪が立件できず『無罪』となった場合、関東学連の今回の追放処分は社会的相当性が維持されるといえるのか。この理を踏まえた警察検察の公平で緻密な捜査が展開され『無罪(嫌疑なし)』となれば、関東学連の永久追放処分はとんちんかんなものとなり、苛酷な処分であったということにならないか



森友文書改ざん問題が不起訴になったことについて、市民感覚としては司法までが政権に忖度しているのではないかということだ。結局は、法による裁きはなく服務規律違反による財務省内のお咎めだけということだ。役人は間違いを起こさないことが前提で法律ができていて、重大な犯罪構成要件が整わないかぎり法の裁きはないということかな?


日大タックル事件では、市民感覚では悲劇のヒーローのはずの選手が法に基づいて突き詰めて行ったら犯罪者になる可能性がある。 森友文書改ざん事件では、いやしくもお上の公文書が一役人の手で書き換えられて、市民感覚では当然法による裁きだが、法に基づいてみたら内部規律違反で終わってしまった。


こうした法と市民感覚の溝を埋めるために重大な刑事事件では裁判員裁判の制度が採用されたと思う。何事も法律以前の常識が働けば、法と市民感覚の溝も出来ないと思うが、簡単なことではない。一方では、参考人あるいは証人として国会に呼び出された役人も、身を挺して殿を守るのか自己保身のためかわからないが、良否は別にしてその精神力はたいしたもんだ。