仏作って魂入れず


6月最後の週の週明け。まだ梅雨の最中とはいえ、夏の勢いはいよいよ盛んだ。もう梅雨明けかと思わせるようなきょうは各地で真夏日、ところによっては猛暑日のようだった。雨上がりのきのうの朝、丘陵の中腹の農道の路傍に咲く花から花へとモンシロチョウが乱舞。ウォーキングの沿道で見かける樹木はうっそうと青葉を茂らせ、花もすっかり夏らしい装いとなってきた。



初心者が弓を射ることを習う際に、師は言う。「二本の矢を持って的に向かってはならない。後の矢を頼りにして、はじめの矢をいい加減にする心が出て来る。その都度、一本の矢で事を決めてしまうことだ」と。しかし、師を前にして二本の矢のうちの一本をおろそかにすることなんてあるだろうか。そういうことは、自分にはわからなくても師にはわかっているものだ。このことは、あらゆることにあてはまる。


上記は今から700年ほど前の鎌倉時代兼好法師によって書かれた随筆「徒然草」の一説だ。おおまかに言えば、大体そんなような内容のはずだ。プロ野球パ・リーグ先週の試合、オリックス対ソフトB戦。延長10回、オリックスの選手の打球が右翼スタンドイン。当初ファウルとされたが、リプレー検証で本塁打となり決勝打。しかし、試合後、審判団がファウルだったと誤審を認めたが後の祭り。球史に残る珍事件だ。




けさの中日新聞「中日春秋」でもこの事件を取り上げていた。その場面の直前からの再試合が適当かと述べていた。(2週間ほど前のサッカー天皇杯名古屋グランパスはルールの適用ミスでPK戦だけの再試合をすることが先日の新聞に載っていた)きのうのサンデーモーニングでもご意見番張本勲氏が、人件費はかかるが線審2人増やすことを再発防止のため提唱していた。


行司差し違えがあったら腹を切る覚悟で刀を持って裁きに臨んでいた昔の相撲の行司、判定にクレームがついたら「俺がルールブックだ」で押し通した昔のプロ野球の審判。あらゆるスポーツでリプレー検証が取りいれられた今、非合理的な竹槍精神というか、精神主義は通用しなくなった。



画像検証という仏(ほとけ)が導入されたなら魂を入れることが大切でないか。先週のパ・リーグ誤審事件に関していえば、4人の審判は画像を検証するのにあまりにも安易でなかったか。4人いたら誰かがきちんと見ているだろう。などという気持ちがなかったか。仏様は兼好法師の言うように、4人の審判の気持ちをお見通しなんだ。魂の入ってない仏に対しての警告を与えたのだ。


クマさんの意見は、線審を置いたり、リプレー検証を審判でなく第3者に委ねることはしなくても、資質の向上と併せて、待遇面と権限の拡大で対応できるのではないかと思うが・・・。