「遊んでる」いいじゃない


朝から爽やかな秋晴れで、過ごしやすい一日だった。きょう11月15日の誕生日の花はミゾソバラジオ深夜便は伝える。かつては、ウォーキングコースのあざぶの丘公園の池の水辺で見かけたが、最近は荒れ放題で絶えてしまったようだ。一番下の画像は、先月豊田・矢並湿地で撮ったものだ。


晩夏から秋にかけて水辺に生え、群生する。花はピンク色、米粒のような形で枝先に密集する。名前の由来は、溝などの肥沃な水湿地に群生し、花と葉が蕎麦(そば)に似ているところから。タデ科タデ属。



先日病院で、元勤めていた会社の従業員にばったり会った。今、何をしているかとたずねると働いてないことを恥じるような意味合いを込めて「遊んでる」と答えが返ってきた。彼に限らず他の場で会う人の中にも、そう答える人がかなりいる。そういう人にとっては「労働=善」「遊び=悪」に思えるのではないだろうか。「遊んでる」いいじゃない。


リタイヤーした老人にとって「遊び」とは色々な束縛から解放されて自分のしたいことをしたいようにすることだと思う。先日ある方が新聞のコラムで述べていた。日本人の多くは「べき人間」だ。何々すべきだ、すべきでないといった流れの中で生きている。老いとともに「たい人間」になってもいいのではないか。と。



クマさん、数日前の日記にこんなことをカキコした。「定年後には趣味を持つべきだ」とか「地域のつながりを大事にすべき」といった類の内容のいわゆる「定年本」が出回っている。これらの主張は決して間違っているわけではない。むしろそのとおりだ。さりとて、すべての人がそうあらねばならないということではないだろう。と。


「するべき」という考えに支配されずに、したい時にしたいことをする。これが、われらサンデー毎日族の特権なのだ。