棒の手と宮口神社


青空が広がり、風も穏やか。過ごしやすい日になった。腰は100%恢復。風邪は85%。グラウンドゴルフの例会は大事をとって休んだ。あすから金沢。ドタキャンでは迷惑をかけることになるから、やむなし。


自宅から豊田市内へ行く際には必ず宮口神社の前を通る。大きな「お馬さん」が飾ってあるあの神社、通称お馬さんの神社だ。家から約5分だ。きのうの中日新聞三河版のシリーズ「はっくつ 三河遺産」の「棒の手鎌田流」を読んで、そのお馬さんの意味やら、毎年秋のわが地区の神社の祭礼で「棒の手」の演武が奉納される意味がわかった。ただ、何となく見過ごしていたものに、こんな意味があったのか。へぇ。



そもそも「棒の手」とは。1.8mほどの樫の棒と木刀を用いた武術でこれを表の型といい、太刀、薙刀、鎌などの武具を使うものを裏の型という。発祥は定かではないが、戦国時代にこの地方では神社への献馬が行われていた。「けんか祭り」ともいわれるように荒っぽいものであったため、火縄銃や棒の手が警護につくようになるとともに、境内では棒の手の奉納が行われた。



農民の自衛のための武術であった棒の手が、やがては五穀豊穣を願う芸能となった。豊田の棒の手は4流派あり、そのうちの一流派「鎌田流」の宗家がお馬さんの神社宮口神社の地元宮口町に今なお残るという。鎌田流がこの地に伝わったのは1783年。日進岩崎城主の家臣が編み出した流派を、宮口村の住民が免許皆伝を受けて三河に伝えたといわれている。



現在の宮口町には三自治区があり、それぞれの区長が持ち回りで宮口棒の手保存会長を務め、伝統芸能を継承している。本来鎌田流の師範になるには、宗家からの指導・審査を受けて目録を授かる必要がある。しかし、宗家がある宮口町ではその栄誉にあずかり、住民全員に、「目録」が与えられる。


宮口の子どもは生まれながらにして免許皆伝。「三河の棒の手」を後世に受け継ぐ役目を担うのだ。その披露の場が宮口神社をはじめとする近在の神社の秋の例祭なのだ。わが地区の神社にも毎年来てくれて、祝儀をはずんでいる。



追記
13年前に生涯学習講座で豊田の棒の手会館を見学した。猿投神社の棒の手奉納が中心の展示であった記憶だ。同神社に棒の手が初めて奉納されてたのは1553年で、それ以降三河尾張、美濃の各地から180あまりの村々から何千人もの人が献馬や棒の手を奉納したと記した資料を頂いた。


宮口神社のお馬さんの横に「由縁(ゆえん)」を書いた掲示がある。そこには「宮口という村名は猿投神社の宮の口という意味である」と書いてある。当時の猿投神社の権勢ぶりを垣間見た。