マチュピチュあれこれ

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穏やかな秋晴れの日が続く中、もう11月、霜月だ。早いもので、来年の年賀状の売り出しが始まった。朝から、沖縄首里城の火災のニュースで持ちきりだ。15年ほど前一度だけ行ったことがある。木造建築が一度燃え出したらあっけないものであることを、まざまざと見せつけられた思いだ。その点、きょうのテーマのマチュピチュは石造りで火には強い。                        

 

 一度は訪ねてみたい世界遺産の筆頭は何と言っても南米ペルーのマチュピチュだ。友人、知人で何人もが訪れている。彼等に対して悔し紛れにいうセリフは決っている。「行くヒマはいくらでもあるけれど、あんな標高の高いところでは心臓疾患のある自分には無理だな」。

 

そのマチュピチュに関する情報に接する機会が最近2度もあって、そのミステリアスな背景にロマンを掻き立てられている昨近だ。

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10月の初め南東北のツアーに参加した際のことだ。松島から裏磐梯へバスで移動。福島県安達太良山(あだたらやま)のすそ野を通った。ガイドは高村光太郎の「智恵子抄」に出てくるこの山について長々と語った。一旦口を開くと留まることを知らないこのガイドさん、続いて話したのが、この山の麓に広がる大玉村のことだ。

 

空中都市として人気の高い世界遺産を抱えた南米ペルーのマチュピチュ村が世界中から申し込まれる「友好都市」のラブコールを断って、初めて選んだ相手は何と、日本の農村、福島県大玉村だった。何で?

 

マチュピチュ遺跡で開かれた提携式典では民族衣装をまとったマチュピチュ村の村長と、紋付き羽織姿の大玉村村長が並ぶ姿がなんともミスマッチだが、清々しさすら感じさせたことと想像できる。

 

移民としてペルーに渡り、初代村長を務めるなど観光開発に尽力した野内与吉さんが大玉村出身だったことから、マチュピチュ側が提携の話を申し込んでいたと云う。人口8500人の大玉村平成の大合併にも乗らず、地球の反対側の国が100年近い昔の恩を忘れずに運んで来た良縁を機に「住民に日本一近い」村づくりを進めているという。

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おとといの水曜日、この6月にNHKが2日間に渡って天空のマチュピチュ遺跡から世界初の4K画像中継を行ったものを2時間にまとめて、そのダイジェスト版をBS3で放送した。興味深く見た。

 

当時インカ帝国の首都はクスコで、標高3,400m。標高2,400mのマチュ・ピチュから、さらに約1,000メートル高い場所にその首都があった。インカ帝国は日本でいえば戦国時代の16世紀初めにスペイン人による征服により滅亡した。、

 

 アンデス文明は文字を持たないため、アンデス山脈の断崖の上にあるマチュピチュは誰がいつ、何の目的で築いたのか?どのようにして精緻な石組みを作ったのか?多くの謎に満ちている。首都クスコとの関係・役割分担など、その理由もまだ明確に分かっていないという。

 

急斜面に位置したマチュピチュの頂上には、太陽の神殿があり、夏至冬至が正確に分かる窓があるなど、太陽を使った暦を観測、作成したとも言われている。

 

成田を飛び立ち、日本の真裏にあるマチュピチュに着くまで40時間かかったと驚いていたアナウンサー。秋の夜長にミステリーロマンは深まるばかりだ。