「自然」との力くらべには限界あり

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週末は小春日和が続いた。豊明から後輩が訪ねてきた。ウッドデッキでお茶をしていても快適な陽気。その来客に教えられて庭の垣根に山茶花が咲いているのを知った。何となく過ごしている日常を指摘されたようでばつが悪かった。三好丘のナンキンハゼの並木が美しいからといってわざわざ見物に来た。いまはアメリカ楓の方が美しいので、そちらも併せて案内。

 

歩道橋の上から眺める。目の覚めるような赤色や橙(だいだい)、黄色のグラデーションを描き出している。正式名は紅葉葉楓(モミジバフウ)。別名アメリカ楓(ふう)というそうだ。金沢の広坂通りがアメリカ楓通りといって、全国的に有名だそうだ。偶然にも6年前のきょう18日に撮った広坂通りのアメリカ楓の写真があった。地域による気候の差があるものの、三好丘の方に軍配があがる。

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名古屋刑務所を取り囲むように三好丘の住宅地が広がり、ナンキンハゼ、アメリカフウ、エンジュなどの街路樹が季節毎の彩を演出している。新緑の季節もいいが、やはり秋の紅葉・黄葉・褐葉が一番魅力的だ。

 

ナンキンハゼは実と種子にそれぞれの風情がある。やや赤味を帯びた新緑、夏の緑色の実を経て、晩秋や初冬に茶色の実から、割れて出てくる丸くて白い種子。これらの白い種子が青空の下で、小さな鈴玉のように揺れる姿は、いじらしくて可愛いものだ。

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先月台風19号や21号そして関東・東北の豪雨が矢継ぎ早に襲って来た時に、こんなことがふと頭によぎった。人種間の紛争に巻き込まれたり、貧困にあえいでいる人たちは命がけで豊かな国へ逃れて行く。やがては、日本人も自然との闘いに負けてどこかに逃れて行く羽目に陥るのではないかと。

 

そんなことが頭の片隅にまだ残っている、おととい土曜の中日新聞朝刊カルチャー面「時のおもり」欄に大学名誉教授池内了氏がクマさんの心配に応えるような一文を寄稿していた。「自然と力比べしない知恵」「国土強靭化には限界」との見出しだった。以下はその内容の要約。

 

日本は地理的に二つの意味での過酷な自然現象と付き合わねばならない国。一つは、地球を覆うプレートが互いにぶつかり合い沈み込む場所にあるため、地震と火山の巣となっている。もう一つは、上空を流れる偏西風の影響による激しい気象変動から逃れられない。

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地震、火山の爆発、集中豪雨、台風、高温多湿な気候、豪雪といった過酷な自然現象と付き合わねばならない「負」の面があるものの、季節ごとに大きく変化する自然が実り豊かな日本にしてきた。自然の厳しさと素晴らしさは切っても切り離せない関係にある。

 

しかし、近頃になって、百年に一回のはずの気象異変が毎年のように頻発している。「天災は忘れぬうちにやってくる」時代を迎え、災害情報の的確な伝達、そして自然と力くらべしないこと。この二つを先人が残した教訓として活かすことだ。昔と違って格段に進歩した災害情報は、今や多すぎて錯綜する情報をどう整理するかの方が課題となっている。

 

問題は、現在もなお自然と力くらべしようとしていないかということだ。堤防の整備でかつての水害に比べれば死者の数は確かに減った。しかし、そのまま国土強靭化計画へと拡大して、頑丈な堤防で河川の氾濫を押さえ込もうとするような自然との力比べをしていないか検証すべきだ。今回の堤防決壊が大河川と中小河川の合流地点で多く起こったことは強靭化の限界を示している。遊水池とか放水路というような、柔軟で比較的予算のかからないような治水対策も併せて検討すべきでないか。

 

直球勝負ばかりが能でない。変化球をまじえてこそ、いい結果が出る好投手ということだろう。