「自分史」金沢離れて三河人に


午後からはうす雲がかかったが、おおむね晴れの過ごしやすい一日。けさのラジオ深夜便、きょう3月29日の誕生日の花はカタクリと伝えていた。先日の新聞で足助・飯盛山カタクリが見頃と報じられていたが行く機会を失ってしまった。1年昔の名前で出てもらった。


「自分史」金沢を離れて三河人に

金沢に赴任して10年、3人の子どもの内長女が小学校に入学した年に名古屋の本社からお呼びがかかった。35歳のときだった。長いサラリーマン人生の中で、つき合い酒と麻雀が多かったのが係長、課長の5年間だった。晩飯を家で食べる時だけ家に連絡のルールもこの時代だった。



金沢からの突然の転勤で一家5人の住まい探しに東奔西走した。結局、多治見の実家の離れに居候して、その間にマイホームを建てた。職場に豊田方面の住人が多く、盛んに勧誘するので豊田の保見団地の従業員斡旋用土地を買った。昭和53(1978)年のことだった。この豊田に居を構えたことが後のわが人生を決定づけたと今でも思っている。当時、従業員斡旋用土地が豊田と各務原にあり、迷った末に豊田に決めた。各務原だったら、違った運命に出会ったことだろう。



40歳課長の時、人事部長からの呼び出し。豊田にある関連会社が若手を欲しがっている。今までの仕事の経験といい、年齢といい、住まいといい消去法で行くと君が最適だ。となった。職・住とも三河で、三河人生の始まりだった。保見団地に外国人が多くなって住み心地が悪くなったこと、子どもたちが成人し一家に5台の車が収容しきれなくなったことで隣接する三好丘に転居したのが平成7年54歳の時だった。



豊田の関連会社に出向して17年、専務取締役の時、大阪の関連会社へ取締役社長として出向した。57歳のときだった。在任5年、顧問1年だった。豊田の会社に出向してからリタイヤーするまでの23年間は今更思い出したくもないことばかりだった。そんなことも書かなければ「自分史」からの逃避になるが、この暗黒の時代は自分の心の中にしまっておきたい。