父の死


甲子園が終わった。あすは二十四節気の「処暑」。あさっては台風20号の通過。まだ8月とはいえ、朝夕の空のようすや明け方の風、夜の虫の音などに秋の始まりを感じる。そんな思いをめぐらすきょうのおよそ1週間ぶりの猛暑日だ。


今年の夏の甲子園は、金足農高フィーバーに沸いた。日本全国金足農高への「判官びいき」に沸き立って、プロ予備軍集団ともいえる大阪桐蔭も地元甲子園で戦いながらまるでアウェーの気分でなかっただろうか。刀折れ、矢尽きて13対2の大敗の金足農高、徳島・池田高校の蔦監督の名言が思い出される。「負けるのは不名誉でない。不名誉なのは負けて駄目な人間になることだ」人生は敗者復活戦だ。



わが父親は昭和23年6月1日に51歳でなくなった。自分の小学校1年生のときだった。6歳の時だからそれまで父と遊んだこととか、叱られたことなど何か思い出があってもよさそうなものだが、それがまったくない。喘息を患って吸入器で喉の治療をしていた姿くらいしか思い出がない。母親や兄、姉から聞いたこともなかったし、こちらから聞くこともなかった。


断捨離のひとつで本棚の整理を少しづつしている。初めて見る冊子が出てきた。「文芸誌 はげやま 創刊号」昭和23年8月1日発行だ。発行者は岐阜県多治見高校文芸部となっている。4人の編集者に8歳年上の次兄の名前が出ていた。30数頁の冊子に10人が手記・随筆・詩・短歌・俳句を投稿していた。次兄は「父の死」と題する手記を寄せていた。



その「父の死」では、父は昭和10年頃に大病に罹り危うく一命を捨てるところを助かり、戦時中に工場に通ったことが大きく身にこたえたこと。23年4月頃から喘息にかかり寝込んでしまったこと。その痛々しい闘病の日々を5月13日から亡くなる6月1日まで日記風に綴っていた。5月15日に自分(クマ)と父のやりとりのシーンがあった。


(兄と父が口論になって)母の涙の説諭は再び私(次兄)を父の部屋に帰らせた。父の姿はどことなく気違いじみていた。丁度その時弟(クマ)が入ってきた。私の横に座って、無心に父の顔を見つめている。病身の父が立ち上がるや弟は、すぐ戸の方に走り寄って、静かに戸を開けた。弟は父を助けようとしたのだ。そして、もう一度父の顔を見た。父の笑顔。それは、珍しかった。父は弟に言った。「お前をな、一度抱いてやりたい。長い事抱かんからな」しかし、彼は幼子さえ抱く力がなかった



その手記はこう結んでいた。父は死ぬ前に言ったそうだ。「おれは喜んで死んでゆく。本当に幸せだった。おれが死んでも泣くなよ。みんな喜んで送ってくれ」死んだように20分ほど眠って、そのまま息を引き取った。父の葬儀は厳粛だった。父が死に際まで抱きたがった弟は白い箱をしっかり小さい腕に抱いて墓場へ行った。


父より20数年も長生きして、この歳になってはじめて父の最後の様子を知り、己の不明を恥じるばかりだ。物心がついた時から父は病に臥しがちだったから仕方ないといえばそれまでだが、それにしても母親や兄姉とも話し合うこともなくここまできてしまった。わが家族は皆生きるのに一生懸命だっただろう。末弟の自分がひとりで墓仕舞いをして永代供養したのがせめてもの罪滅ぼしだ。