お盆


昼間こそ30度越えの真夏日になったが、夜明け前のウォーキングではひんやりとした高原の涼しさ、ノコンギクの咲き始めた草むらでは虫の声。1週間ほど前にやってきた立秋も”伊達”でなかった。”小さい秋”を見つけた。


きょうから盆だ。いつごろからだろう?この8月の盆を月遅れの盆と云われるのをあまり聞かなくなった。8月の盆が当たり前の国民的行事になった感だ。それは時代の流れで仕方ないことだろう。子どもの頃の多治見では7月が盆だった。


                           

葬儀も家族葬が多くなったり、墓にも入れず散骨したりペンダントに入れて肌身離さず供養したりする時代になっても、先祖の霊が戻って来るときに一族が集まって迎える行事が日本版「盆バカンス」としてけっこうなことではないかと思う。



子どもの頃の水泳場所は粘土で白く濁った土岐川だった。お盆の時、川で泳いでいると精霊流しの舟が浅瀬に漂着しているのがたくさんあったのを思い出す。板や厚紙で作った舟の中になすときゅうりに割り箸が4本挿してあり、そうめんがなすときゅうりの上に垂れ下がっているものもあった記憶だ。桃や梨などの供物もあったような気がする。その当時は、それがどんな意味があるのか考えることもなかった。


きのうの朝ラジオで聞いて目からうろこが落ちた。きゅうりは足の速い馬に見立てられ、あの世から早く家に戻ってくるように、また、ナスは歩みの遅い牛に見立てられ、供物を牛に乗せてあの世へ持ち帰ってもらうとの願いがそれぞれ込められている。そうめんは手綱に見立てられている。お盆に因んだ話の中でこんなことを云っていた。



お盆から話は脱線するが、土岐川は多治見の景気のバロメーターとも云われていた。濁っていれば陶器の生産量が多いということだ。そんな川で泳ぎを習った最後の世代ではないだろうか。その土岐川も今では堤防道路から鯉が泳いでいるのが見えるそうだ。なぜかしら、陽水の「少年時代」のメロディーが頭の中で鳴り出した。

  ♪ 夏が過ぎ  風あざみ

    誰のあこがれにさまよう

    青空に残された 私の心は夏模様