いじめについて思う


厳しい寒さになった。つい、2週間ほど前はイチョウの黄葉が朝日に照らされて眩しいほどの美しさだった。久しぶりに通ったウォーキングコースにあるイチョウの木が丸坊主になって、辺り一面は黄色のじゅうたんを敷き詰めたような風景だった。厳しい寒さが丸坊主にさせたのだ。


先日、朝のラジオで語っていた。気象台が梅や桜の開花日を発表するように、イチョウの落葉日もやっているそうだ。気象台に梅や桜と共にイチョウの標準木もあり、この標準木から8割の落葉が観測された日が落葉日だとか。今年の名古屋のそれは11月30日だったようだ。




相変わらず「いじめ」に関する報道が後を絶たない。自分がガキだった頃と比べて、どこが違っているかを考えると我々の時代は、いわゆる世間の常識を学校・家庭よりむしろ地域・ガキ同士から学んだことが多かったような気がする。

● 立小便をしていると近所のおじさんが「みみずに小便をかけると・・・」と叱る。

● 縁台で夕涼みをしていて口笛を吹くと、近所のおじさん、おばさんが「夜、口笛を吹くとサーカスに連れて行かれる」と注意される。

● 「泥棒・巡査」で遊んでいて、上級生は下級生を縄で縛るときは手心を加える。



「いじめ」は教育基本法が改正されようが、共産主義の国になろうが人間社会がある限りなくなるはずがない。いじめられる者に手を差し伸べる心、いじめにあうスキをつくらない心構え。このようなものは学校で教えられるものではない。家庭・地域で自然に醸成されるものであると思う。


我々のガキの頃と比べると社会構造が変化した(核家族化をはじめとして教師が聖職者から労働者に変化したことなど)から学校・地域・家庭の果たす役目も自ずと変わって来るのは当然だが、今は余りにも学校にお任せになっているような気がしてならない。