海の日に思う


異常気象災害は西日本だけでなかった。身近なところで、とうとう起きてしまった。豊田・梅坪小学校の児童の熱射病死。今中3の孫の通っていた小学校だ。きょう、18日午後1時半には多治見で5年ぶりに国内40度の気温を記録した。危険な暑さだ。多治見のブログには超大型の風鈴の写真を添えてお見舞いを投稿。



おととい7月16日は「海の日」だった。海のない県、岐阜生まれのクマさん、小学校に上がるまで海を見たことがなかったと思う。低学年の頃、毎年四日市霞ヶ浦へ海水浴に行った記憶がある。どうして、多治見から三重県なんかにいっただろう?知多より水がきれい。名古屋駅名鉄の駅まで行くより関西線のホームに移るだけで乗換えが楽だったからだと思う。


その当時知多半島では名鉄沿線でも名古屋に近い新舞子や大野町の海水浴場が賑わっていた記憶だ。内海が脚光を浴びたのは、昭和55(1980)年に知多新線が開通した後からだと思う。昭和39(1964)年入社して電車の運転士・車掌の実習を常滑線河和線で3ヶ月くらいした。新舞子や大野町は、水は濁り、目に入るのはガスタンクや火力発電所の煙突やら、巨大なクレーンばかりで賑わいをなくした海水浴場だった。



きのうの産経新聞デジタル版に「海の日」に因んだコラムがあった。その中で常滑市の大野海岸では古くから、海に入って病気を治す潮湯治がさかんだったとの記述があった。常滑市のHPで調べた。平安時代後期1162年方丈記で知られる鴨長明が伊勢から訪れて「大野でゆあみの日数を重ねた」と記している。                 


それが、「世界最古の大野海水浴場」の証拠だそうだ。他の外国の文献も列挙して比較していた。それを見る限り世界最古だ。「天災は忘れられたる頃来る」の警句で知られる物理学者寺田寅彦も「海水浴」と題する随筆に数え4歳で病弱だった時に大野に訪れた記述がある。当時「海水浴」は一般的でなく丸裸で海につかり体を鍛える民間療法を「潮湯治」と云ったそうだ。



運転士や車掌を実習していた当時、沿線にこのような歴史があることも知らず、ただ指示されるままにやっていたことを恥じ入るばかりだ。


もともと健康の向上を目的としていた「潮湯治」がいつのまにか「海水浴」にネーミングが変わり、次第にレジャーの色合いが強まって現在に至っている。しかし、国内の海水浴客は昭和60年をピークに減り続けているそうだ。人口の減少とレジャーの多様化が主な原因だろう。海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願おう。