パラリンピックに思う


このところ不安定な天気が続く。雷ゴロゴロ、突然の雨、時折照りつけるギラギラの日射し。それでも9月の声を聞くだけで秋を感じるから不思議だ。ましてや、ウォーキング中に秋を象徴する草木のひとつススキに出会ったりすればなおさらなことだ。三好丘の丘陵地の畑の土手にススキの親分ともいえるパンパスグラスが生えているところがある。花穂が銀色に輝き2〜3mぐらいに伸びている。


ロンドンパラリンピックが開催中だ。オリンピックが文科省管轄のスポーツの大会に対してパラリンピック厚労省管轄で、そもそもリハビリの延長線上にある「医療」「福祉」の大会であったという。それが、障がい者も健常者も隔てなくという国際社会の流れからパラリンピックにおける競技スポーツの振興は、福祉だけでなく「スポーツ文化」の発展につながった。ソウル大会よりオリンピックと同一開催になってからパラリンピックが注目されるようになった。


障がいを持つ若者が大会出場を目指して鍛錬することが彼らにどれだけの生きがいをもたらしたか計り知れない。それだけに、パラリンピックの意義は大きい。しかし、NHKが教育テレビで放送したり、一般紙がスポーツ面に大きく紙面を割いてまで報道する必要があるか疑問に思う。これだけ大々的に報道するなら、パラリンピック文科省管轄の「スポーツ競技」として認知すべきではないか。


それというのも、パラリンピック出場者は体の機能にハンデキャップのある人。マスターズ陸上や水泳の世界大会に出場する人は年齢にハンデキャップのある人。ハンデキャップがありながら、鍛錬して世界の檜舞台で活躍してもマスターズが報道されることはめったにない。その根底にはロサンゼルス五輪以来ショービジネス化した商業オリンピックの影響があるのではないだろうか。


要するにパラリンピック障がい者の運動を「福祉」から「スポーツ文化」にレベルアップさせ世間の注目を得るようにした功績は大であるけれど、商業オリンピックの結果であって動機が不純だといいたい。それに反してマスターズなどはアマチュアーリズムに徹しているから世間の注目度も少なく、それが不条理に思えて仕方ない。